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「何を」やるのか?やらないのか?他人から見る「選択」とは「結果」

こんばんは。えのもとです。

今日は「何をやるか?やらないか?」をテーマに沿って問題提起をしたいと思います。

英語にすると、Do or Don't?になるわけですが、
やらないのとやると決めることは簡単な問題ではありません。

仕事に就くときも、
会社で働くのか?働かないのか?
そもそも働くのか?
と、私たちは決めているからです。それも、悩みながら。

これを読んでいる皆様の中にも、働きたくて働いているわけではない!と思う人もいるでしょう。遊ぶのに飽きたから、人生に生きがいを求めて働くという選択肢を取る人もいるでしょう。それは、様々だと思います。

また、生きるお金を稼ぐため…という現実的な問題もあると思います。

理由は何でもアリだと思います。
けれども、周囲の人から見ると「働くか?働かないのか?」という二択を選択しているのに過ぎないのです。そこには、あなたが苦しんで悩んだ過程など、分からないのです。

選択って、何をするにしても必ず避けては通れない行為であるにも関わらず、その過程や理由って、他人には理解されないことの方が多いじゃないですか。

決死の覚悟で決めたことでも、「やめときなよ」「バカじゃないの」と貶すのは一瞬です。本当に、一瞬です。

それもそのはず。なぜならば、他人からあなたを見た時に、一番手っ取り早いのは「結果」を見ることだから。

私は適応障害を患い、治療中に家族に見守られながら生活をしていました。しかし、その一方で、「どうして働かないの?」という視線も感じていたのです。

自分は頑張って働いているのに、怠けているように見えてしまう。休みたいのに、休んでいる家族が嫌になる。色んな感情があることでしょう。
適応障害になった理由も過程も、家族は知っています。それでも、人はつい「結果」の方を見てしまう。

これって、受験勉強と似ていないでしょうか?
どんなに頑張っても、結果が不合格であれば自分が否定されたような気持ちになってしまう。周囲の人からも、「あーあ…」と頑張りが足りなかったかのような目で見られてしまう。

私は常々、本当に「その時のその人の気持ちが分かる」には、自分が同じ境遇にならないと理解できないと思っています。それは、適応障害を治療しながら生活していく過程でも、周囲からの奇異な目からも、感じ取ったことです。

こんなことを言うと悲しいことを思っていると思われそうですが。現実として人が人を見るとき、「結果」ばかりに注目してしまう性であるようにも思えます。(思う構文は気にしないでください)

だとしたら、人に安易に共感を求めるのはいけないことではないか?本当にわかってほしいこと、説得したいことがあるのであれば、その心理を逆手に取って「結果」を先に作ってしまえばいい。

「結果」をつい見てしまうのであれば、非難できないように成功体験としての「結果」を作ること。

ロケットを打ち上げたいとか、世界平和を実現したいとかスケールの大きすぎるものであれば、結果を作ることは容易ではないでしょう。
しかし、それでも仮の「結果」を作ることはできます。そのための手段は何か?と細分化して目標にしてしまうのです。

ドリームキラーは身近であるほどに、影響されますから、全てを言う必要はないのです。

それもまた、「やるか?やらないか?」を選択することなのです。

あなたは今日、または一年後に、「何を」選択しますか??


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