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【書評】アランの幸福論を主体的に考える。

はじめに

2023年が終わりを告げようとしていた頃に、勤めている会社の上司に1冊の本を勧めていただいた。それが、本ブログの題材となる幸福論(アラン著)である。結論、この作品はとても面白かった。直接的に訴えかけてくる面白さではなく、スルメのようにしがむことでようやく味が出てくるといった具合の面白さだった。

「これがあなたに必要だ」という言葉とともに勧めていただいたのだが、哲学書ということもあり、嚙み砕くのにかなりの工数と時間を要した。また、アランと私とでは生きている時代が異なるため、聞き馴染みのない言葉や、触れたことのない文化について書かれているプロポに関してはあまり没入できなかった。

ただ、所謂自己啓発本とは異なり読者側に求めるものがなく、行動や姿勢に関して特に強いられることもなかったため、心的負荷をかけずに心地よく読み進めることが出来た。また、本書は93個のプロポからなる詩集のようなもので、体系的に何かを語っているわけではないのだが、スタンスがブレることなく一貫している。そのため、不思議な魅力がある作品だった。

さて、本ブログのテーマはアランの幸福論について主体的に考えることだ。主体的という言葉を付け加えた理由は大きく分けて2つある。1つはアランが「何も強いていない」がために、受動的に捉えてしまうと何も残らないと考えたこと。もう一つは本書を解釈するにあたり、私を形作るエッセンスとなった作品を振り返り、自身の捉え方で再構成したかったからである。

アランと本書について

本文に入る前に、まずはアランと本書について少しだけ私の解釈を述べさせていただきたい。未読の方も以下の背景を想像することで、アランとはどのような人物であり、また本書の言わんとすることに対して輪郭をぼんやりと捕捉することが可能だと思う。

ザックリ要点解説


エミール=オーギュスト・シャルティエ

本名はエミール=オーギュスト・シャルティエで、彼はフランスの詩人かつ哲学者である。アランとは彼が執筆活動に際し用いるペンネームであり、最も有名な著書が「幸福論」だ。また、今日ではラッセルやヒルティの幸福論と並んで、三大幸福論と呼ばれている。

「悲観主義は気分に属し、楽観主義は意志に属する。およそ成り行きに任せる人間は、気分が滅入りがちなものだ。やがて苛立ち、憤怒にかられる」という彼の言葉から読み取るに、彼は積極的楽観主義者だ。ただ物事の成り行きが良くなるだろうと捉えるのではなく、幸福を享受したいなら己の行動や捉え方を変える必要があると説いている。情念に支配されるのではなく律するべきであると捉えているということは、性悪説派なのかもしれない。

また、前述したプロポ(哲学断章)とはいわば形式のない散文のようなもので、本書はそれらをまとめ、翻訳したものである。基本的には抽象的に表現されているが、本質的な部分は一貫して書かれている。


ビビッときたプロポ集

前置きはここまでにしておいて、この章からは現時点での解釈を記録することを目的とし、私が読んでいて考えさせられ、共感することのできたプロポについて自己解釈を加えて紹介していく。

情念を運動で管理する

退屈している人には、退屈を維持するにふさわしいような座り方、立ち上がり方、話し方がある。いらいらしている人にはまた独特の心の動かし方で自分を締めつけている。意気消沈した人は、からだの筋肉から出来る限り力を抜いている、そう言ってよければ馬を車のくびきからはずしているようなもので、これでは何かをはじめることで、今まさに必要な元気を出すマッサージを自分でするどころではない。

岩波文庫 幸福論 12 ほほ笑みたまえ より引用

気分に逆らうのは判断力のなすべき仕事ではない。判断力ではどうにもならない。そうではなく、姿勢を変えて、適当な運動でも与えてみることが必要なのだ。

岩波文庫 幸福論 12 ほほ笑みたまえ より引用

情念と肉体は切っても切り離せない。情念は往々にして肉体に影響を及ぼし、それから逃れることは難しい。であるならば、その関係性を逆手に取り、マイナスの情念をプラスの運動によって中和させる事が出来るのかもしれない。というのが私の解釈だ。アンガーマネジメントにも通ずるところがあると思う。

情念に対して思考で戦ってしまうと、より一層情念の激しさに囚われてしまうことがあることを忘れてはいけない。勿論、運動や行動が常に万能薬としては機能しないとは思うが、基本姿勢として日常から意識しておきたいなと感じた。

原因だいたい自分論

どんな人でもこの世の中に自分よりもおそろしい敵は見つからないのである。ぼくは冒頭で一種の狂人のすがたを書いた。しかし、狂人とはわれわれの誤った考え方が拡大したものにほかならない。ほんのわずかな気分の動きの中にも、被害妄想の縮図があるのだ。

岩波文庫 幸福論 20 気分 より引用

人間は自分自身以外には敵はほとんどいないものである。最大の敵は常に自分自身である。判断を誤ったり、無駄な心配をしたり、絶望したり、意気沮喪するような言葉を自分に言い聞かせたりすることによって、最大の敵となるのだ。

岩波文庫 幸福論 67 汝自らを知れ より引用

このプロポを読んだ際、私は思わず口に出した。
「宇宙兄弟じゃん。南波六太じゃん。」と。

出典 宇宙兄弟11巻
出典 宇宙兄弟11巻
出典 宇宙兄弟11巻

私は、宇宙兄弟という漫画が大好きで、もうかれこれ10周はしている。このシーンは作中でも特にお気に入りで、日常の出来事に対して内省の機会を与えるトリガーとなっている、いわばカンフル剤のような存在だ。

健全な人は相手を変えようとせず、自分が変わる。
不健全な人は相手を操作し、変えようとする。

アルフレッド・アドラー

アドラー心理学にも、似たような考え方がある。仮に1:9で自分が悪いケースだとしても、その「1」自体には反省の価値があり、改善することで自分にとってプラスになるというものだ。

アドラーは「すべての原因は自分にある」と唱えていたが、南波六太は「だいたい俺」と唱えている。この違いは個人的にはかなり大きい。すべての原因が一個人にある筈がないからである。

自責思考は行きすぎると自罰思考になってしまう。故に、原因だいたい自分論くらいのマインドが適切だと私は考えている。これも情念管理と同様に、基本姿勢として備えておきたいことの一つだ。

完璧主義より改善主義でありたい

ある木の好きな友人が、彼の庭を一緒に歩いている時、こんなことをこぼしていた。彼は樹齢百年の楡の木を指して、近いうちに寿命が尽きるだろうと言った。ぼくは彼に、「戦わなければだめだ。この小さな毛虫にはそんな力があるわけがない。一匹殺せるなら、百匹でも千匹でも殺せるよ」と言った。「千匹ばかりの毛虫がなんだい。何百万といるんだぜ。そんなこと考えないほうがいい」と答えた。

岩波文庫 幸福論 27 欲すること より引用

「想像力の働きはすごいものだ。君はもう戦う前から逃げている。自分の手の及ばないところは見ない方がいい。仕事のとほうもなさと人間の弱さを考えたなら、人は何もできない。したがって、まず行動し、自分のやることだけを考えるべきだ。」

岩波文庫 幸福論 27 欲すること より引用

何かに対して比較検討する際、私は絶対悲観主義者なので、負の側面に目が行きがちになる。悲観主義自体は悪いことではないと思うし、そんな自分を受け入れてはいるのだが、デメリットは確かに存在する。

それが、このプロポでも説かれているような、行動の制限である。0か100かという完璧主義は人の思考の幅を制限し、行動に制約を与える。いわば博打のようなもので、上手くいけば一時的には抜きん出ることが出来るのだが、0の場合収穫がなく終わってしまい、長期的な成果は見込めない。

出典 ぼくらの 6巻
出典 ぼくらの 6巻

求めるものはそんなに簡単に手に入らないと思う。それは個人においても、組織においても適用される。そのため、だからこそ、改善主義であるべきで、目標の細分化の本質はここにあると思う。高い目標に対して、できない理由よりもできる理由を考えることとは似ているけれど異なる。私自身は改善主義の考えを大事にしたい。

自発的行動と積極的幸福

自分の意志で労苦を作り出すやいなや、ぼくは満足する。ぼくはこのようなプロポを書いている。「そりゃ、骨の折れる大変な仕事だ」と、文筆で食っている者なら言うだろう。ただ、だれもぼくにそれをやりなさいとは言っていないのだ。自分が好きでやっているこういう仕事は楽しみであり、もっと正確に言えば、幸福である。

岩波文庫 幸福論 42 行動すること より引用

人間はもらいものの楽しみにはうんざりするが、自分で勝ち取った楽しみはすごく好きなのだ。人間は、しかし、何にもまして行動するのが好きなのだ。征服することが好きなのだ。苦しみを受けたり、耐えるのは好まない。だから、行動のない楽しみを選びとるよりも、自分で行動できる労苦をむしろ選ぶのだ。

岩波文庫 幸福論 44 ディケイオス より引用

認識の外側からぶん殴られた。いや、考えてみれば確かにそうだよなと。私は自由が好きだ。自由というのは単に他者からの支配や干渉を受けていない状態を指すのではなく、自発的に考え、行動し、その責任の所在が全面的に自分にある状態のことを指すと私は考えている。

なにかをやらされるということは、指示を与えた人間と受けた人間がいるということだ。結果が上手くいったとしても心の底から喜べないのは、比重にかかわらず手柄が分配されるからである。逆もまたしかりで、失敗した際に内省することが難しいのは、責任が分配されているからである。

自発的で自由な行動は楽しい。今回のテーマもそうだ。別に上司からの指示を受けて本書を読み、感想文を書いているわけではなく、私が読みたくて読み、書きたくて書いている。収益を得ているわけでもなければ、特定のフォロワーに向けて書いているわけでもない。

出典 ヒストリエ 6巻

ただただ、はじめ死に体の文字の集合体が自らの思考の中で方向性を持ち始め再適用の姿に形成されていく、その工程がたまらなく好きだ。その過程の中で自己分析をし、自分の知らなかった内面や新たな知識を得ることでさらにいい表現ができるようになると思う。そういった恩恵は、全責任を自分で抱えることのできる自由の中でのみ発現するのだと私は信じている。

そういえば最近人生で初めてパチンコを打ちにいった。結果はトータル1万円ほど勝ったのだが、楽しんでいるというよりは機械に楽しまされている感覚が大きかった。キュイキュイキュイーンという音、デバイスの振動、虹色に発光する液晶等のド派手な演出は確かに脳に直接的に訴えかけてくる。が、それらは幸福ではなく受動的な快楽なのだと気づかされた。
(でも好きなコンテンツの台はたまに打ちたい)


自分が先か、相手が先か

ものごとにしてみれば、君をのせて運ぶことなど瞬き一つと同じなのだ。自分に親切であること、自分の友人であることを学ばねばならない。

岩波文庫 幸福論 70 我慢強く より引用

他人に対して、また自分に対しても親切であること。他人が生きるのを支えてあげること、自分が生きて行くのも支えてあげること。これこそ、ほんとうの愛徳である。親切とはよろこびにほかならない。愛とはよろこびにほかならない。

岩波文庫 幸福論 73 上機嫌 より引用

引用元を見失ってしまったのでここは直接書くが、アランは自分が幸せになることは他者に対する義務だと説いている。彼曰く、自分ひとりで力強く幸せな人は、ほかの人のおかげでさらに幸せに、もっと力強くなるだろう。幸せは商売繁盛で、与えるより受け取るほうが多くなる。それでもやはり、自分の中に幸せを持っていないと、与えることもできないのだ、と。

シャンパンタワーの法則(イラストAC)

心理学の有名な考え方としてシャンパンタワーの法則というものがある。自分や身内のグラスを満たさない限り、他者や社会のグラスが満たされることはないというものだ。利他的と利己的はよく対比的に扱われるが、根っこの部分では繋がっているのかもしれない。他人のために生きるために、自分のために生きようと思う。

今勤めている会社の一次面接で以下の質問を投げかけられたことが強く印象に残っている。「あなたは運がいいと思いますか?」この質問の意図に対する私なりの解釈は、応募者を取り巻いてきた環境とその原因を外に求めるかどうかを確かめるためのものという認識だ。当時は意図など考えていなかったが、私は1秒ほど間をおいて「はい。」と答えたのを覚えている。

縁あってこの質問を投げかけてくれた方とお酒を飲んだ際に、意図を尋ねてみた。すると「だって俺、運悪い奴と働きたくねーもん。運悪い奴と働きたい?」という回答が返ってきた。事実は小説より奇なりである。それでも、私は幸運な人間、即ち、満たされている人間のみ他者を満たすことが出来る、そういう人間を求めているという解釈をすることにした。


★心のゆとりを意識的に作る

意図的になされたことはすべて、礼儀作法の埒外にあると、ぼくは思う。たとえば、ほんとうに礼儀正しい人間は、軽蔑すべき人間や悪意のある人間に対しては断固とした態度をとり、しまいには手荒な真似をすることさえありうるだろう。それは無作法ではないのだ。計算ずくの親切もまた礼儀作法ではない。礼儀作法といえるのはただ、特に意識することなく行った行為、特に示そうというつもりもなく何かを示した行為のことである。

岩波文庫 幸福論 83 処世術 より引用

無作法な行為は思いがけなく飛んでくる流れ弾丸である。礼儀作法をわきまえた人間はそれを避ける。自分の思うところにしか突きを入れない。突きはそれだけ鋭いわけだ。礼儀をわきまえるというのは、必ずしもへつらうことではない。

岩波文庫 幸福論 83 処世術 より引用

私は瞬発的なコミュニケーションが苦手だ。電話の取次ぎや、忙しい時間帯の業務の引継ぎの際に、簡潔に話すことが苦手なのだ。また、具体的な説明を求められた際に、思ってもいない発言をしてしまい、墓穴を掘ってしまうということが多々ある。本当に多々ある。しかもその瞬間に気づいてしまう、「あ、今、虎の尾をふんでしまったな」と。

そんな日の帰りの電車は最悪である。猛省につぐ猛省で、「あの時こういう言い方をすればよかったな」という思考を巡らせているうちに、乗り換えの駅で降りれなかったことが何度かある。本書での最大の学び、そして自分に不足している点はまさにこのプロポの中にあると感じた。勧めてくれた方は、もしかしたらこれを伝えたかったのかもしれない。

昔のアルバイト先には「Take Time To Be Kind」というモットーがあった。親切であるための時間をとりなさいという意味だ。当時は何となく受け止めていたが、今になってこの教えが効いてくる。瞬発的なコミュニケーションの合間に一呼吸おいて、心にゆとりを持たせてみることが有効かもしれない。言いたいことを整理し、余計な発言をはじく時間が私には必要だ。

アランさんのいうことにゃ、これは意図的な礼儀作法なのかもしれないが、習慣は意志によってつくられるため、第一のステップは意識的に行動してみることだと思う。それが意識せずに行えるようになって、初めて礼儀作法にステップアップするのかもしれない。いずれにせよ、この課題に関してはPDCAサイクルを回しまくる必要があると思う。

ご褒美なんていらないという境地

自由な行動だから幸福なのである。自分で規則をつくりそれに従っているから幸福なのである。一言でいえば、サッカーであれ学問研究であれ、規律を容認しそれにしたがうから幸福なのだ。そしてそういう義務は遠くから見るかぎり、おもしろくない。それどころか不愉快なものだ。幸福とは、報酬など全然求めていなかった者のところに突然やってくる報酬である。

岩波文庫 幸福論 87 克服 より引用

私には人生の師匠がいる。日本人初のプロゲーマーであり、最も長く活動しているプロゲーマーとしてギネスブックにのっている梅原大吾だ。

梅原大吾の履歴書 en転職 より引用

私が大事にしている考え方、物事に対するアプローチ、人生における哲学はとあるゲームで世界一になるまでの過程で獲得したものが8割を占める。そして、その過程の中で出会ったのが、前述した梅原大吾である。私は人生で何かに迷ったら梅原大吾の考えを振り返ることにしている。アランが現代のソクラテスなら、梅原大吾は令和のアランである。

切り抜きだったこともあり、削除されてしまってもう視聴できないのだが、何度見返したかわからない動画の中で、彼は確かこのように語っていた。

「ご褒美というのは追い求めているうちは絶対に手に入らない。それでも目標に向かってひたむきに突き進む過程の中で、ご褒美なんてもういいやという境地に立った時、気が付いたら手に入っているものがご褒美だ。」

私が思うに、ご褒美とは成長であり足跡だ。人が何かに対して飽きる時、それは物事自体に飽きるのではなく、成長を実感できない自分に対して飽きるのだ。結果をすぐに求めていたら、本当の意味でのご褒美は手に入らないと思う。だからご褒美なんていらないと思えるところまで突き詰めていきたいと思うし、そうあれるように道程を楽しんでいきたい。

マリアナ海溝よりも深いこの講演を私は寝る前によく聞く。2時間もある講演なのだが、まったく長さを感じない。それほどに面白いので、是非視聴してみてください。

おわりに

今回はアランの幸福論の中で私が特に大事にしていきたい姿勢や学びについてまとめてみたが、本書にはまだまだ紹介したいプロポがたくさんある。読み手によってさまざまな解釈があるといえるほど自由な作品なので、ぜひ手に取って読んでみてほしい。

私は3日かけて読んだが、ハッキリ言って栄養過多というか思想過多になった。詩集のようなものなので、どこで切ってもいいし、好きなペースで読める。本来的にはもっと時間をかけて、ゆっくりと読む作品だったと今となっては感じるが、読みたい本がたくさんあるのでやむを得なかった。

本ブログのテーマは主体的に考え、私を形作るエッセンスとなった作品を振り返り、自身の捉え方で幸福論を再構成することだった。形作ると表現したのは、私の中でそれらがまだ核となっていないからだ。借り物の言葉を自分の言葉にしている最中なのである。本書で得た学びもゆっくりと消化していきたい。

また、別の目的として現時点での解釈を記録することを掲げていた。すべて自分に向けての自戒だ。である調で書いてあるのも、単にそちらの方が書きやすいからである。本書は一度読んで、はい終わりというものではないため、期間を開けて、また読み直したい。その際に私の中で答え合わせがしたいのだ。

今回の執筆に向き合う中で、他に書きたいテーマのアイディアがたくさん浮かんできたので2024年は月に1本ペースで定期的に書いていけたらと思います。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

出典 ヒストリエ 3巻

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