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「うまのまにまに」体験記:馬から学ぶ生命の在り方


遠野へ

遠野のクイーンズメドウ・カントリーハウスでは、人間を超える馬の力を、馬具によって押さえつけるのではなく、人と馬の信頼に根差した形で生かす、そんな関係性の結び方を探求してきた。そこには、人と人の関わり方への示唆がある。

クイーンズメドウ・カントリーハウスの創設メンバーであるTさんの言葉の奥深さに心を動かされて、迷わず「馬と過ごす2泊3日のプログラム:うまのまにまに〈秋編〉」に申し込んだ。

遠野は、北上川流域の都市部とリアス式海岸の沿岸域の漁港のあいだの山間地域にある。山間部と言っても、決して閉ざされた土地ではなく、武家の城を擁し、海と山の民衆の往来があった。古くから馬と暮らす文化があり、今も全国有数の馬の里なのだという。現実と幻想の間に、神聖なもの、妖しいものが渾然一体となって人々と織りなす遠野物語の数多くの逸話がその土地柄を伝える。

北上川をなぞるように走る東北新幹線で北上し、新花巻で下車。東北新幹線の発着駅は、まだ東京の世界の延長線上にある。その構内を後にすると、一瞬方向感覚を失う。遠野に向かうJR釜石線のホームには、改札口もなく、人影もまばらで、ゆったりした空気が流れる。事前オリエンテーションの際にオンライン上で顔を合わせた参加者と、小さな待合室で挨拶を交わす。はまゆりの車内から色づく秋の風景を眺めながら、徐々に異なる世界に入っていくことを実感。残暑の長引く東京では、まだ秋の到来を感じたことがなかった。旅路は、マインドを切り替えてくれる。馬の鬣がすすきの穂と重なる光景を思い浮かべ、はやる気持ちは遠野に跳ぶ。


初日:馬と出会う。場になじむ。

境界を跨ぐ

クイーンズメドウ・カントリーハウスの手前で駅から乗ってきたタクシーを降りる。この辺りには、多くの駒形神社があるそうだ。まずは土地の神様にお参り。Tさんに導かれて、舗装された道路から、細流を跨ぎ、穏やかな起伏のある木立に足を踏み入れる。巨大なご神木の合間に、木組みの小さなお社がひっそりと建つ。

水飲み場の雌馬エリアナ、エリ、エリザ

クイーンズメドウの建物群は、駒形神社のすぐ奥に、木立に隠れて佇んでいた。厩のすぐ前の水飲み場で3頭の雌馬に出会う。馬たちは、水を飲んでは、飴を舐めるように塩の塊を交互に舐めている。ハフリンガーの馬は、首をもたげると、ちょうど目線が合う高さとなる。馬と目が合って、親しみを覚えた。思ったより小ぶりだが、毛深く、がっしりした足をしている。アルプス出身の馬だけに、険しい山岳地域で生きていく体躯の強さが感じられる。

クイーンズメドウ・カントリーハウス

荷をほどき、戸外から手折ってきた枝で煎じたというクロモジ茶で一息入れる。美しく整えられた宿舎の空間になじんでから、馬を探しに戸外へ。クイーンズメドウでは、馬は放牧されている。馬との関わり方を探求する中で、厩を開け放ってみたところ、馬たちは、一切厩には帰ってこないそうだ。馬を囲うのではなく、馬が入ってはいけないところだけを囲う。囲っていても、若い雌馬エリザは、柵を破ってクイーンズメドウのMさんが育てている畑の作物を食べてしまう。人と馬の知恵比べでは、馬のほうに分がある、と同じく馬とのセッションを担当されているEさんが笑う。

落ち葉を踏み、見通しの利く木立の中を進む。葉が落ちているからばかりではない。人の手を入れてきた森だからだ。いい塩梅で間伐された森は心地よく歩くことができる。人里離れた場にいる感覚だったところ、不意に村落のアナウンスが流れ、驚く。スピーカー音が思いのほか大きい。尋ねると、昔はこの辺りは田んぼだったそうだ。一見しただけでは、人手が入り続けてきた土地には見えない。きっとクイーンズメドウは人里と山辺の境のあたりにあるのだろう。人家も、近すぎず遠すぎず、お互いの存在が気にならない距離感覚で散らばっている。そんな隙間の豊富さが山男、山女、河童などに息吹を与えたのかもしれない。

クイーンズメドウの木立

馬同士の関わり合い


牡馬アルとサイ

牡馬と雌馬は、敷地内の別々のゾーンで暮らす。宿舎から離れた牡馬のゾーンで、サイとアルの2頭に出会った。馬と言えば、草原を颯爽と走るサラブレッドのスマートさが思い浮かぶが、すすき色の長い鬣が顔の周りを縁取り、丸みを帯びた体躯が栗色の毛並みに包まれるハフリンガーは、秋山がよく似合う。小雨の中、小高い高台に1頭が凛と首をもたげて立ち、私たちを見下ろす。その背後に、足を怪我したもう1頭が座していた。馬は、牛ほど胃が発達しておらず、常に食べ続けなくてはならない。常に食べているので、首を下げている姿勢が自然なのだという。馬の首が長く進化したのは、見晴らしを確保するより、草を食むためだったのだろうか。でもこの時は、怪我した仲間を庇おうとしていたのかもしれない。

宿舎の近辺で、親子3代の雌馬エリアナ、エリ、エリザに再び出会う。案内してくれるEさんは、遠目からでも3頭を固有名詞で認識していた。なぜわかるのだろう。私には3頭の「馬」にしか見えない。

馬の群れと人の群れが、距離を置いてお互いを眺める。馬のスペースに人が入っていく。馬同士も近すぎず、遠すぎず、互いの存在が感じられる距離を保つ。1頭が動くと、連られるように他の馬も動き出す。群れをリードするのは、いつも決まった馬ではない。その時々で、リードしたり、されたりしつつ、お互いの距離感を保って動いていく。

馬も年齢によってマインドの持ち方が異なる。おばあさんのエリアナは、達観した風で落ち着き払っている。若いエリザは、思春期の敏感さを持ち、ちょっとしたことに反応する。人を警戒してさっと避けて遠のくかと思えば、先に移動してしまったおばあさんとお母さんの後を追って、慌てたように小高い丘を滑って降りる。馬がこんな動きをできるとは。エリザの滑りは、後々まで話の種になった。

ほぐれた空気感

プラント・ベースの食事

暖炉のある土間風のダイニング・スペースで、食卓につく。色とりどりの多様な食材が芸術品のように美しく盛り付けられており、目を楽しませてくれる。随所にちょっとした趣向や配慮が忍ばせてあり、お料理されたAさんによるメニューの解説が好奇心と食欲をそそる。言葉を添えられたお料理は、一層味わい深く感じられる。プラント・ベースの手作りの優しい味が、身体に染みこんでいき、幸せな気持ちにさせてくれる。毎回、贈り物を開けるときのように食事の時間が待ち遠しい。

そんな食の豊かさを味わった後の静かな言葉の交感。それぞれに、その日1日の体験を自分がどのように消化したか、内省し、共有する。1人の言葉に全員の注意が向く。言葉が湧き水のように内側からあふれてくることもあれば、一言づつ噛み締めるように、語られることもある。個々人が思い思いに発した言葉が、響き合って、その場に流れる空気感を表してくれることもある。初日は、スタート地点に立ったわくわく感と好奇心が空間を満たした。個々人が自分自身に対して、お互いに対して、その場に対して、開き始めたことを感じさせた。

言葉の交感の場アオゲラホール

一言一言に耳を欹てる張り詰めた空気から解放され、暖炉の温もりを感じつつ、参加者同士がじわじわと距離を縮める。プログラム参加前はお互いに見知らぬ仲だった。だから、近すぎず、遠すぎず、馬と共に過ごした1日の体験で重なり合い、適度な距離感が保てるのかもしれない。なぜ牡馬と雌馬の放牧の領域を分けるのか、と言う問いに、Mさんが、エリザとアルのうまくいかなかった交尾を引き合いに出しつつ、発情期でなくとも、不必要に刺激しないためだと教えてくれた。雌馬に断固拒絶されても、なお、牡馬の本能の力は抑えがたい。Mさんは、「だめなんだよ、アル」と声をかけるしかなかったという。制御しがたい馬の力の意味をかみしめて聞いた。自然な妊娠によって生まれたエリザの存在は、いわば奇跡かもしれない。


2日目:距離感を探る。

折り合いのつけ方

朝の馬事

馬糞集めから始まる朝の馬事。枯れ葉の上に集めた馬糞を乗せる。馬糞によって、草の入り具合や色合いがそれぞれ異なり、馬の体調がわかるのだという。集めた馬糞は、敷地内の農に活用される。馬糞を拾いつつ進んでいった先に、馬たちを見つける。

蹄のお手入れとブラッシング。まず、おばあさんのエリアナから。そして母親のエリ。2頭がブラッシングされていると、警戒心の強い娘のエリザもいずれ応じる。馬の心理を読みつつ、人にも馬にも負荷のかからない手順を探る。松井さんが、手加減の仕方を教えてくれた。エリザが蹄に触れられるのを嫌がるのであれば、まずは足を少し地上から上げるだけでいい。その次の時に、もう少し長く足を上げた姿勢を維持し、こちらに蹄の底が見えるほど足を曲げてくれるか、様子をみる。相手の許容範囲も読みつつ、どこまでプッシュするか判断し、徐々に慣らしていく。一方的な意思の押し付けではない。双方の歩み寄りで互いの距離を詰めていく。

横からエリザに近づき、脇腹のあたりにブラシをかけようとしたら、身体を背けられてしまった。同じことを2回繰り返した後、今度は正面に回り、目を見てコミュニケーションを試みる。まずは前足をブラシで軽く触り、エリザがそれを受容しているのを確認して、側面に回る。大人しくブラッシングを受けてくれた。きっと気持ちいいのだろう。老齢のエリアナと異なり、若いエリザの毛並みはごわごわしていた。ブラッシングで徐々にほぐれてくると、こちらもやりがいがある。馬とのスキンシップで心理的な距離も縮まる。

エリザにブラッシング

私は、学生時代に乗馬部の馬にいきなり腕を噛まれたことがある。自然な環境では、馬にストレスがかからない。馬が噛みついたり、引っかいたりするのは、狭い厩で馬にストレスがあるためだという。その頃、軍人だった祖父は、普通、馬はそのような行動はしないはずだと言い、私に乗馬部への入部を勧めなかった。祖父には、わかっていたのだろう。

非言語のコミュニケーションの質感

朝食後、厩に隣接するパドックで、リーディングに挑戦する。Eさんが母親馬のエリを引く様子は、いとも簡単そうに見えるのに、私がいざリードを引いて前進しようとしても、エリはがんとして動かない。馬には人間以上の力があるので、媚びる必要がない。正面から両眼を見て合図を送り、リードの引き方に強弱をつける。だが、小手先のテクニック以上のものが馬との向き合い方には問われる。馬は、リードを握る私から感じ取れるものに反応する。この人を信頼してついて行けるか否かを見据えている。こちらがやや怯むと、馬にもそれが伝わる。まるで私の内面まで見透かされているようだ。馬を動かすには、こちらの意思をしっかり伝えなくてはならない。「さあ、行こう。」頑として動かないエリにこちらも固い意思を持って向き合う。言葉にせずとも、念じている思いは、種を超えて相手に伝わる。馬との関係性は常に交渉。1回動き出したらかといって、それが続くとは限らない。その瞬間ごとに関係性も常に変化し続ける。惰性は通用しない。

リーディングに挑戦

他の参加者が一人づつリーディングする様子をパドックのこちら側から遠目に見ながら、馬がフォローするとき、立ち止まってしまうとき、その時々に馬と人との間に流れる空気感に意識を向けた。馬がフォローするとき、その引き手の内側から発散される安定感やエネルギーが感じられる。馬との関わりは、野生の感性を研ぎ澄ませてくれる。人間同士の関わりでは、どうしても言葉に意識が引っ張られてしまうが、無意識のうちにお互いの発するエネルギーに影響を受けているのだろう。言葉で飾り立てることなく、生身の人間として馬に接するとき、自分のうちにあるものが、よりはっきりと浮かび上がってくる。

馬に学ぶマインドの持ち方

リーディングの応用編は、参加者がペアとなって交互に馬を引き、近隣の荒川駒形神社にお参り。私たちのペアは、一番扱いにくいエリザと歩くことになった。リードをつけて歩き出したものの、パドック内と異なり、道沿いに生い茂る草が馬の気を惹く。草を食むことに没頭するエリザは、リードを握る私を右に左に振り回し、道脇の木立の奥まで入り込んでしまう。道草ばかりで全く前に進まない。見兼ねたEさんが、「今は食事ではなくて前進するときだ」と、しっかり伝え、エリザのモードを切り替えなくてはならない、と声がけしてくれる。そうか、私のほうがエリザにリードされるままになっていた、と気づく。私自身のマインドが試されている。多少の道草は許容しつつも、しっかり進む方向は示さなくては。リーダーシップを取るときのマインドの持ち方と相通じるものがある。

荒川駒形神社への参道

荒川駒形神社に祀られる白馬にお参りして帰途に就く。ペアを組んだ私のパートナーが、エリザとしっかりしたコミュニケーションを取ってリードしている姿に感服した。彼女が1日で大きく変わったように感じる。馬と触れ合う中で、人が自分の軸となるものを見つけていくプロセスを目の当たりにした。

お参りを終えて

山と里の間、人と馬の間

夕方、雌馬が夏を過ごす放牧地を見に行く。遠野では、イネ科の植物を好む馬は、田を耕した後、稲作期間中は夏山で高原の草を食んで過ごす。里より寒冷な高原で、夏の間、馬にたかるアブを凌ぐためでもある。荒川高原に広がる広大な草原で夕陽を拝む。きっと馬も伸び伸び過ごせて気持ちよいだろう。馬と人は、秋から春にかけての農閑期を里で過ごす。この季節、人は、農閑期の仕事に馬が必要で、馬も、また、干草を必要とする。1年の暮らしのリズムが、人にも馬にも理に適ったものとなっている。

夕暮れの荒川高原

稲刈り後、里に戻った馬と人は出会いなおす。馬は、その瞬間、その瞬間を生きている。どんな過去の関係性があっても、過去の出来事に囚われることはなく、過去の延長上で相手を見ることもない。今この時の関係性を常に結び直し続ける。特に長期間の離別を経て秋に再会する相手は、外面上同一であっても、春まで連れ添った頃とは異なる心性を持っていて当然だ。実際、夏を高原で過ごした馬は、少し野生を帯びるそうだ。知人から、放し飼いの猫は、家猫に比べて、感情が豊かになる、と聞いたことを思い起こす。家飼いと放牧の環境の違いは、馬でも猫でも、動物の気性に影響するようだ。うちなる野生が目覚めると、未来にも、外の世界にも、自分自身が開かれた状態になるのかもしれない。

馬が繋いでくれたご縁

高原への道中、親子二代にわたってクイーンズメドウに関わるKさんが、その変遷を語ってくれた。馬が中心にいたからこそ、関わる人は入れ替わっても、途絶えることなく続いてきた。「うまのまにまに」は、Tさんの、馬を中心に置いたプログラムを作りたいという思いを起点にしている。馬という異なる種を挟むと、人間同士の関係性がやや和らぐ気がする。馬を中心に、迎える側も、迎え入れられる側も、気張ることなく自然体で交わることができる。一方的に誰かに負荷がかかる関係性ではなく、馬同士のように、その時々で、ケアしたり、されたりしつつ、お互いに心地よい距離感を保って。


3日目:お互いに馴染む。

遠野時間

遠野では、体感する時間の流れが都会と異なる。ひとつひとつの体験の密度が濃く、その体験に内在する時間が時を刻んでくれる。一段落したときにふと気づく日の射し方で、「もうこんな時間か」と気づく。時計が機械的に刻む時間に振り回されることがない。いつも目覚まし時計に頼っている私が、この日の朝は自然に目が覚めた。私の体内時計がリセットされたように感じる。まるで異国に旅してきたかのように。

種を超えて心を通わす

ジンガロウと出迎えてくれるEさん・Tさんご夫妻

即興的にプログラム変更となり、朝一番にTさん・Eさんご夫妻のご自宅へ。朝の馬事の代わりに乗馬を体験することになった。広々とした敷地内のパドックで、馬上のTさんが勇ましく出迎えてくれる。愛馬の名前はジンガロウ。ハフリンガーの血が入っているが、クイーンズメドウの馬より、やや丈が高い。補助してもらいながら、何とかよじ登るように裸馬に跨った。馬の上に仰向けに寝転んでみる。馬の背骨の曲線が人の背筋にちょうどよく合致し、胸が開かれる。ヨガでブロックを背に当てて仰向けになる時のようだ。実際、馬上ヨガなるものがあるそうだ。馬上では、馬と目を合わせてコミュニケーションを取ることができない。リードを引き、横腹を軽く蹴るだけでは、こちらの意思はなかなか伝わらない。立ち往生してしまい、どうしたものかと途方に暮れる。馬は、背中に乗せている人の身体から伝わるものを感じ取って動くのだろうか。ジンガロウの動きは、乗る人によって大きく異なる。騎手と馬は一体になって初めて動くことができるのだと思った。

ジンガロウの上で仰向けに

クイーンズメドウに帰ると、雌馬3頭が宿舎の敷地内にいる。「あれ、いちゃいけないところにいる。」きっとエリザが知恵比べに勝って、超えてはいけない柵を倒してしまったのだろう。馬たちを敷地からパドックへ誘導する。思いがけず出迎えてくれた馬たちと暫し交流する。前日よりさらに距離が縮まった気がした。エリザには少し逃げられてしまったが、初日ほどの警戒心は見せない。人への警戒と言うより、やや自我を主張している感じがする。正面から見た馬の顔には何とも言えない愛嬌があって、愛おしさを覚える。こうした積み重ねを経て、動物が家族になっていくのだろう。馬も私たちに親しみを感じてくれているようだ。初日に「馬」にしか見えなかった3頭が固有名詞になった。エリザをパドックから放牧のスペースへとリーディングする昨日のパートナーが、とても頼もしく見える。ご本人も、エリザに頼られている感覚があった、という。

知恵比べに勝った3頭

群れを離れる

木村秋則さんのリンゴを使ったタルトタタン

クイーンズメドウでの食事の締めくくりは、木村秋則さんのリンゴを使ったタルトタタン。アームズメソッドで入れられた珈琲は、苦みがなく、むしろほのかな甘みを感じ、優しい味のタルトタタンによく合う。最後のご褒美のようだった。

再びパドックに戻り、リードを持った人の周りを馬にぐるぐる回らせるランジングを体験。Eさんが一緒にリードを握ってくれ、その感覚だけ味わった。馬の側面に立って、どのように動いてほしいか意思を伝えることになるので、リーディングより一段とコミュニケーションの難易度は高い。だが、なぜそのような動きをするのだろう。

馬とのスキンシップ

出立前に、Eさんが、Honza Bláhaという人が4-5頭の馬と戯れる動画を見せてくれた。重厚な馬具や装備を介せず、生身の人と馬が信頼と愛情を以て、こんなことができるのか、と目を見張るような動きを自然にやってのける。彼の魔法にかかると、馬がまるで犬か猫のようだ。最後に、彼が群れに背を向けてすっと離れていく。それだけ深い絆なのに、馬は後を追わない。馬は、常にその瞬間を生きているのだ。再び馬だけの群れに戻り、何事もなかったかのように、草を食みながら、別の方向に移動していく。

遠野からの私たちの出立も、群れの解散のようだった。別れの挨拶を交わすと、迎えのタクシーに乗り込み、クイーンズメドウの人々に手を振る。共に過ごした3日間に感謝の気持ちを送りつつ、それぞれの方向に散っていく。満たされた気持ちを胸に。


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