(トラウマ セラピー)ソマティック・エクスペリエンス(SE):ケガの記憶、体が覚えていること

ソマティック・エクスペリエンシング(SE)のトラウマセラピーを受けるときに、「これまでに何か大きなケガや病気をしたことがありますか?」と質問されることがあります。私も何度かその質問を受けたことがありますが、いつも「いいえ」と答えていました。

実際には、子供の頃に何度か大きなケガをしたことがありましたが、自分のつらさの原因は、育った家庭の問題であり、過去のケガが原因ではないと感じていたからです。1回1万円近い高額のセラピーで、その貴重な時間を、ケガの話をすることで割きたくなかったから。もっと他に自分の本当のつらさの原因につながる話をしたいと思っていました。

でも最近、もしかしたらあれは、実は大事な質問だったのかもしれない、と感じるようになりました。

私は今でも日々、左足の震えがあり、右足にも時々あるのですが、セラピーを受けて自分の身体の感覚に日々注意を向けるようになってから、足の震えは、自分の様々な感情とリンクしていることが、よく分かってきました。

そしてそれが、いつまでたっても治らない、おさまらない。もちろん体の反応は、必ずそこに意味がありメッセージがあるはずなので、無理に抑えない、無理に止めないようにしています。

ただ、この震えがおきている自分の身体に意識を向けながら、時折、この震えは何だろう? 何を私に伝えたいのだろう? 何を私にわかって欲しいのだろう? と考えることがあります。

そして、日々起こる震えは、もしかしたら子供の頃の大けがの記憶も含まれているのかもしれない…と感じるようになったのです。

自分がセラピストから聞かれても、毎回答えなかったケガの記憶を身体は今も覚えていて、あの経験を軽視しないで欲しい、あれは本当につらい出来事だったのだと、私に伝えているのかもしれない。

私のケガの記憶は、幼稚園の頃、母親の自転車の後ろに乗っているときに、自転車の車輪に足をはさんでしまって、1ヵ月位、幼稚園を休んで自宅で過ごしたという記憶です。母から、車輪に足を入れてはいけないよ、と何度も言われていたのに、「ちょっと入れてみようかな」と思った自分の気持ちも覚えているし、その後の大騒ぎ、病院で治療を受けながら、母がずっと泣いていて、先生から「お母さんが泣いていてはだめでしょう」と言われていたこと。夜、家に帰って、これは私がケガをするたびに毎回起きたことなのですが、父が母に対して、めちゃくちゃに暴力をふるう、母の叫び声、泣き声、悲鳴、父の怒鳴り声、暴力、その原因が自分にあるという感覚、ケガの傷みと共に、そういう記憶が今も残っている、そんなことを思い出しました。

私の足は、なぜ今でも震えるのだろう? なぜそんなにずっと毎日つらいのか? なぜそんなにつらさが残っているのだろう? そう考えると、ケガの記憶は、さまざまな傷みを伴いながら思い起こされてきます。これはきっと、身体が覚えていること。そのつらさをもっと深く感じて、受けとめていこう…

セラピーで受けたあの質問は、とても大事なことだったのかもしれない。
身体は、きっと今も、さまざまな傷みを記憶しているのでしょう。

SE(ソマティック・エクスペリエンス)では、トラウマを主に二種類に分けて考える。ひとつはショックトラウマである。これはDSM(米国精神医学会診断統計マニュアル)の定義通り、自他の生命や身体的統合が脅かされるような危険な体験や目撃によるもので、戦争体験や自然災害、身体的暴力やレイプ、交通事故などがこのカテゴリーに含まれる。
もうひとつは発達トラウマで、子ども時代に受けた虐待やネグレクトにより生じるトラウマである。

『トラウマセラピー・ケースブック 症例にまなぶトラウマケア技法』PART10 ソマティック・エクスペリエンス, 藤原千枝子p.331

私のケガの経験は、ショックトラウマと、発達トラウマが重なったものだったのかもしれません。でも残念なことに、そのことに気づいたからといって、自分の日々の震えがすっかりなくなったわけではないのです。
トラウマとは本当に根深く、きっと言葉で表すことができない様々な記憶を含んでいて、癒しの道のりは、まだまだ続くのでしょう。それでも日々、少しずつ歩んでいると信じながら。

私は最近、身体とは、人間が地球で生きる間、神様というか、大いなる何かから、生きている間だけ、借りているものなのではないか、と考えるようになりました。全ての身体は、神様から一時期、特別に借りているもの、そう考えると、誰も彼も、そのひとつひとつが素晴らしい存在なのだ、と思います。本当は、その全てが美しく、かけがえのない存在であるはずだと。

だからこそ、身体をないがしろにすることは、それを貸してくれた大いなる存在に対して、申し訳なく、つらいことなのだと。
自分で自分の身体を大事にしないことは、好ましくなく、つらいことであり、他人の身体を大切にしないことも同じように、とても申し訳なく、つらく、悲しいことなのだと思います。

どんな存在であれ、生きていて、意味があり、価値がある。
何かができても、できなくても、
何かを知っていても、知らなくても、意味があり、価値がある。

そんな風に、私は最近、思います。