With You Anthem
原体験
物心ついた頃から遊び相手は同居の叔母だった。
叔母は『統合失調症』とかいう精神障害があるらしい。
道理で少し変わっていたわけだ。
もっとも、そんなことは気にしたことなかったし、その事自体知ったのも成人してからくらいだ。
スーパーブルーになって寝込んでいようが、ウルトラハイになって屋根に登ろうが、幻聴が聞こえたり幻覚が見えたりしても家族である事に変わりはない。
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3歳の頃、父が脱サラして会社を始めた。
場所は自宅の敷地内にあるプレハブ小屋で、仕事は製造業の末端の業務を行う会社だ。
両親の他に、近所の主婦や、叔母のような人たちを数名雇って創業した。
毎朝正確に決まった時間に「これから会社に向かいます」と連絡をくれる男性従業員からの電話に出るのが幼少期の自分のお手伝いの1つだった。
会社には様々な人が働きに来ていた。
『見た目は大人、頭脳は子供』みたいな人や、子連れのお母さんたち、おばあちゃんくらいの人も。
今の知識であの場面を例えるなら『混沌(カオス)』である。
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新潟県上越市大字上千原。
育った集落は『市街化調整区域』というらしく、都市計画に基づいて敢えて発展させない地域のようだ。
そのせい(おかげ?)か、至るところに多様性が溢れていた。
ダウン症も、知的障害も、精神障害も、関係ない。
普通に遊んで、登校班を組んで、学校に行って、勉強して、時にはケンカもして。
我々のケンカを仲裁してくれるのも、福祉職でもなければ民生委員でもなく、きわめて普通の地域のおっさん・おばさんたち。
そんな環境で、それなりに健やかに育ってきた。
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違和感
それは小学校の中学年くらいの時だったと思う。
クラスや、校内の『ちょっと変わったやつら』が教室から姿を消した。
どうやら別の教室で勉強することになったらしい。
その時は「そっかー」くらいにしか思わなかった。
今にして思うと、それがいわゆる『特別支援学級』というものだろう。
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中学生になって『職場体験』なるものに行った。
ホームセンターやコンビニ、食品工場などに行ったわけだが、ここでも違和感を感じた。
みんな『ちゃんとしている』
自分にとっていちばん身近だった会社という組織は父の会社で、そこは混沌としていた。
それでも子供から見ても分かるほど、いきいきと、楽しそうにしていたと思う。
『うちの会社って普通じゃないのかも』
何となくそんな風に感じた。
と、同時に『うちの方がいいじゃん』とも思った。
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欠落
目の前の社会に時々違和感を覚えながらも、それを上回る欲求や好奇心、何より『人と同じことが正しい』という教育によって、そんな違和感に対して何かアクションを起こすでもなく、それなりに生きていた。
中学から麻雀を覚え、部活のない週末は毎週のように友達の家で徹マンに興じていた。
高校は推薦入学で地元でもそれなりに名の通った荒くれ工業高校に入学した。
相変わらずの麻雀の他に、バイクや車、タバコに酒、サボりや喧嘩が日常的で、高校から25歳までの間に7度の交通事故を起こし、3度は緊急搬送された。
高校卒業後すぐに出来ちゃった結婚して19で父になった。
更に翌年にも子供が産まれ、20で二人の娘の父になった。
周りの友人たちが社会人生活を満喫し、好きなことを目一杯楽しんでるのを横目に、仕事と家事と育児に追われる内に、どんどんと『全うな道』から外れていった。
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生死の境
2010年1月1日 時間は確か午前9時くらいだったと思う。
ハイドロプレーニング現象によってコントロール不能となった車体は積雪の悪路と、吹きっさらしの強風の影響で全く言うことを聞かず、対向車が迫る反対車線に飛び出した。
『ヤバいっ!!!!』
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ふと気が付くと路肩に後輪を落とした状態で車は停止し、血だらけのエアバッグが目の前に萎んでいた。
路上には気絶している感じの運転手が乗った乗用車。
ドアから這い出て、言うことを聞かない下半身を引きずって匍匐前進で車から離れる。
ナメクジが這ったあとのような血が雪上を染める。
身体に感じる痛みはさほど無く、それなのにどこからともなく流れてくる血がみるみる水たまりのようになっていき、脳裏をよぎるのは『死』のみだった。(後から分かったがシートベルトをせずにフロントガラスに突っ込んだ為、頭がバックリ割れ、頭蓋骨が見えていたらしい)
学生時代の喧嘩でも血だらけになることはあったし、何度度も交通事故を起こして救急車でも運ばれたけど、この時ほどリアルに『死』を感じたことは今でも他にない。
黙って死を待つ訳にもいかないので、必死に携帯を取り出し、救急車を呼んだ。
薄れゆく意識の中で考えるのは後悔ばかり。
ろくに勉強もせず、好き放題遊んで、悪さをして、たくさんの人を傷付けたり泣かせたりして、娘たちの成長を見届けることも出来ずに、親よりも先に死んでしまう。
何だったんだ俺の人生は。
『もし助かったら生き方を変えたい。何か社会の役に立つことがしたい。』
漠然とそう思ったころ、救急車のサイレンが近付いてきた。
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第二の人生
「冬で良かったですね。寒くて血管が縮んでいたから出血がまだ少なくて済んだ。夏だったら死んでいたかもしれませんね。」と先生が言う。
『そもそも夏なら事故らんわ』などとツッコむ気力すらなかった。
見える、聞こえる、命がある という事実が嬉しかった。
翌朝、精密検査を受け、脳波などに異常がなかったので即退院となった。
ホッチキスと針で合計30針の傷に全身打撲と裂傷多数、眼帯をして松葉杖をついてフラフラだったが自分の足で歩けた。
第二の人生人生のスタートだ。
『拾った生命で何をしよう』
『自分にも出来ることって何だろう』
暴走行為、喧嘩、窃盗、飲酒、喫煙、刺青、離婚、罰金、慰謝料、免停、前科。
ゼロからどころではない。
家族も、貯金も、免許も、信用も、健康も、全て無くしたどん底からの再スタート。
『こんな自分に何が出来るのか』
『何か社会に対して提供出来るリソースはないのか』
人生の棚卸しだ。
幼少期からの人生を振り返ってみる。
自分にしか出来ないことが見つかるかもしれない。
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有意味性
いつも身近だった『ちょっと変わった人たち』の存在。
あの時感じた『違和感』の追求。
見えた気がした。
『障害』
あまりに身近すぎて気にしたことすらなかったし、フレーズとして使ったこともなかった。
でも思った。
『あの頃が好きだ。みんな一緒だったあの頃の人間関係が好きだ。』
思えば、父の会社以外で姿を見ることがなくなった『ちょっと変わった人たち』
どこで何してるんだろう。
働いているんだろうか。
楽しく暮らしているんだろうか。
俺の第二の人生はここに注ぎ込もう。
むしろその為に生かされたんじゃないのか。
これは天命だ。
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始動
『障害のある人のためになることをしよう』
そんな感じに考えてみたものの、そもそも知識がまったくない。
考えつく範囲で動いて回った。
市役所の福祉課、特別支援学校、自立支援協議会、地域内の作業所など。
必死になって動いて、ようやく少しずつ見えてきた。
そして感じた。
『知ろうと思って必死に動いた俺がようやく見えてくるってことは、知ろうとしなければ一生知らずにいるだろう』と。
地域内の作業所に仕事を出し、特別支援学校からの実習を受け入れ、少しずつ距離が近付いていった。
その当時は柏崎市の工場を任されていたのだが、隣の上越市にある本社とは違って、障害者雇用はしていなかった。
『このまっさらな土地で、これまでに切り拓いたネットワークを使って、自分の手で障害者雇用をしてみよう』
2013年度には特別支援学校の新卒者を1人採用することが出来た。
つかの間の満足感はあったが、それは長くは続かなかった。
たかだか十数人の工場、それも地方の家族経営の零細企業。
そんなところが1人くらい障害者雇用したところで、社会に対しての影響は皆無。
命を救ってもらったことに対するお返しとしては釣り合わない。
そもそも、そんなことは父が30年前からやってきている。
これじゃない。まだ足りない。もっと違うなにか。
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福祉バリア
この頃から自分にはソレが見えていた。
ソレは、すりガラスのように中を見えにくくする。
彼らの存在は分かる。
『そういう人もいる』という事実くらいは子供でも習う。
でも彼らがどんな暮らしをしているかは、当事者性がない限りなかなか見えてこない。
強制的に清掃のスキルを磨かされ、親や教師が本人のいないところで卒業後の受入先になる事業所を選定する。
自宅のドアと作業所のドアを結ぶハイエースの中にはいつも決まった顔ぶれ。
着いた作業所では『そんなん誰が買うの!?』と言いたくなる雑貨を作ったり、時代にそぐわない箱折りのような作業が行われていて、着の身着のままの服装、何かしらの部品を扱っているとは到底思えない雑然さ。しかも給料(工賃という)は時給にして120円程度。なのに職員は月給25万。
恋愛や性についてはタブー視され、語られることすらない。
メディアは彼らを天使や聖者のように取り上げ、感動ポルノに仕立て上げる。
自ら稼ぐ術を持たない福祉専門職は、自分たちの存在価値を高めて国から予算を引き出すために必死になるから余計に彼らの存在は遠くなる。彼らと関わるにはたくさん勉強して資格を取らなければならない。そう思わせてしまうのだ。
自分が知る『障害者』は弱者でもなければ、可哀想な人たちでもない。
行き過ぎた過剰な福祉が創り出した『福祉バリア』は、彼らの存在をぼやかし、社会から遠ざける。
それに加え、福祉バリアの外では『法定雇用率』などという意味不明な数字が求められ、彼らの存在は、ますます重苦しいものへと押し上げられていく。
本来『雇用』はニーズからくるもの。
くだらない数字で縛った結果として、農園などを利用したテレワーク風の『障害者雇用代行業』まで始まってしまった。
もはや末期である。
義務で雇用させずとも、働く側と雇う側が持っている力をしっかり出すことが出来れば、人口減少の社会では互いを求めあえるはずだ。
何も机上の空論や理想論を言っているわけではない。
30年のエビデンスに基づいた確固たる持論であり、信念だ。
この『福祉バリア』を破壊し、社会をフラットに戻したい。
原体験にある、あの日の風景のように。
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福祉とビジネスの距離
福祉とビジネス(社会)の間には大きなギャップが存在していた。
『福祉』の名のもとに遠ざけられ、互いにその存在を容易には確認出来なくなってしまった故のギャップだ。
地域内の作業所では「仕事がない」と言って折り紙をしたり絵を書いたりする。
一方で、その作業所から徒歩数分の工場では慢性的な人手不足でサービス残業や休日出勤も当たり前になっている。
遠い海外の話ではない。
同じ地域の目と鼻の先でそんなことが起きている。
互いを知ればもっと良くなるはず。
その理想のかたちを長年見てきた自分には『絶対に上手くいく』という確信めいたものがあった。
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架け橋に
『福祉とビジネスの架け橋になる』
そしてその先には必要以上に『福祉』に頼らずとも、自分の人生を自分なりに生きる という『当たり前』が障害者を含む全ての人に行き届くはず。
『働く』という観点から『福祉』と『ビジネス』の距離を詰めるための事業、それが『就労支援』だった。
その中でも、よりビジネスに近いところに位置する就労継続支援A型事業こそ、自分がやるべき、と言うよりも、辺りを見渡しても自分以外の適任者が見当たらなかった。
まさに、『俺がやらなきゃ誰がやる』と言った状態だ。
VISION
『当たり前』を全ての人に
MISSION
福祉とビジネスの架け橋になる
PASSION
俺がやらなきゃ誰がやる
そんな想いを持って2015年7月に法人を設立した。
株式会社With You の誕生である。
任されていた工場をそっくりそのまま切り離して、仕事と従業員ごと引き継ぐ形式をとった。
そして同年9月に柏崎市で初となる就労継続支援A型事業の認可を受け事業を開始した。
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誤算
市で初めてのA型だからきっとすぐに利用者が増えて黒字になるはず。
浅はかな考えだったと数ヶ月で悟った。
想像以上に福祉バリアの壁は厚く、その中にいる当事者へアプローチをかけるのは難しかった。
ましてや、『石橋を叩いて叩いて渡らない』ような業界。
どこの馬の骨かも分からないヤンキー風の小僧が突如始めた株式会社で横文字の社名の地域で初めてのA型など、まるで新手の詐欺事件ばりである。
さすがにこのままではマズいということで、郷に入っては郷に従おうと、髪を黒くし、ピアスを外し、スーツに身を包んで、刺青も露出せず、極めて真面目な福祉人としてメディアにも出て、少しずつ実績を積み重ねていった。
ポツポツと利用者も増え始め、翌年の春には特別支援学校から新卒の利用者3名を含めた4名を採用し、計10名となった。
本来は、スタート時にそのくらい確保しておくべきだった人数が揃うまで半年以上かかってしまった。
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違和感再び
どうにかこうにか事業が成り立ち始め、『With You』は詐欺ではなく、きちんとした事業所だ と認知され始めた。
自立支援協議会では進路就労ワーキングなる集まりのリーダーを任された。
福祉従事者の集まりに顔を出し、「分かります〜」「そうですね〜」と相槌を打つ。
様々なところで講演の機会をもらい、自分の言葉に気を付けながら聞いてる人が感動しそうな感じに話す。
世間からの信頼を得るために必死だったし、その時期があったからこそ今があると思っている。
でもやはり拭えない違和感。
込み上げてくる苛立ち。
やりたかった事業を始めて、それなりに信用もされて、地域内の業界の中ではそこそこの立場にもなった。
なのに何でこんなにつまらないんだ。。。
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俺の原体験に『福祉』は無い
原体験に基づいて、アイデンティティを信じて、その上で事業を始めたはずだった。
『福祉バリア』を壊したいと思って始めたはずだった。
それなのにいつの間にか自分自身が『福祉バリア』の中の住人になりかけていた。
幼い頃、家族として叔母と暮らし、友として遊んだりケンカしたりした友人がいて、戦力として障害者を雇用する父の会社を見て育った。ここに福祉は登場しない。
福祉とビジネスの架け橋になるつもりが、橋の建設よりも、バリアの中の建設工事にばかり気が行っていた。
自分の立ち位置を見失っていたのだ。
気付かずにドップリしていたら井の中の蛙、バリアの中の進撃の巨人になっていただろう。
結果としては、バリア内での程よい信頼を得て、再び架け橋となることを目指して動き出すことが出来た。
今まで以上にアウトプットを強め、自己主張をし、自分らしさを出して、世界観やismを全面に出した。
すると、今まで見えているようで見えていなかった、分かっているようで実は分かってなかったバリアの外が見えてきた。
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ソーシャル的な立ち位置
気付いて、方向修正をして、バリアの中にインターンしていた時期の経験も武器としながら、バリアの外で本領を発揮し始めたら面白いように世界が拓けた。
交友関係だけではなく、自身の言語や知識、アウトプットのテクニックなど、様々なことが急激に上達したと思うし、何より自分がやっていて楽しくなった。
自分が架けた橋を使ってバリアの中に覗きに来る人や、バリアの中から単身外に出て『当たり前』を楽しむ人の姿を見る機会が増えた。
「このまちなら、例え国の予算の都合で『福祉』が先細っても、地域のちからで乗り越えられるんじゃないか」
そんな気さえする。
既存の『福祉』が弱者に寄り添う『伴走者』だとしたら、自分は『福祉』が無くなっても安心出来る社会を切り拓く『開拓者』でありたいのだ。
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正解ではなく選択肢、見栄より真実(リアル)
自分のやり方が正解だとは思わない。
『福祉バリア』の中の住人の一部からは嫌われているのも良く分かっている。
なのでWith Youが創っていく社会に必ずしも賛同して欲しいとは思わない。
福祉が必要な人も必ず居る。
無くてはならないものだ。
でも、障害者と呼ばれる人すべてに必要ではないはず。
そこから外れたい人が出てきた時や、不本意ながらある日突然そこに入らなければいけなくなった人が出た時に、どれだけ安心することが出来るかが重要なのだ。
要は『選択肢を増やす』ということ。
見栄を張ってキレイなところばかり見せるのではなく、駄目なところもある日常のリアルをしっかり見せていくこと。
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With Youイズムの拡散
会社は今年の7月で何とか5期目に突入した。
まだまだ健全な経営状態とは言えないが、地域や取引先、金融機関や支援者に支えられ、何より社員や家族、友人たちのお陰で今日までやってこれた。
全国各地に友人・知人も出来て、大切にしたいと思う人が全国に増えた。
自分勝手なエゴだが、大切な人たちが住む地域を少しでも良くしたい。
良くなる選択肢にWith Youイズムを含めて貰えるなら喜んで提供したい。
そう思って今期からは市外・県外へのアプローチを強めている。
このnoteもそんな思いで書いている。
ここには書ききれない部分や、極めてデリケートな為直接あった人にしか語りたくない部分はもちろんあるが、かなりの濃度で書いたつもりだ。
ちょうど明日(2019.10.8)は他市のA型事業所との特別顧問契約の調印式。
可能な限りたくさんの地でWith Youイズムを拡散したい。
コスパは極めて高いと思うので、興味がある法人、個人、自治体はお早めに。
忙しさのあまり8度目の交通事故を起こし、第二の人生を終わらせてしまうその前に。
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END
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