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わたしが本当にほしかったもの

どこにいてもなにをしていても常につきまとう違和感。
なぜ周りの人たちは違和感を持たないのか不思議だった。
でも大人になり、違和感を持たないというのはつまりそれが「当たり前」にあるからで、どうやら私には周りの人にある「当たり前」がないようだ、というところまではたどり着いた。

でも「当たり前」という言葉は、随分と抽象的だ。
私が思う「当たり前」は具体的にはなんなのだろう、とさらに考えてみると…

・無条件で安心して関係を構築できる「家族」
・安全で安心して帰れる「家」という場所

という言葉に行き着いた。

周りの人たちには当たり前にあって、私にはなかったもの。
それは「絶対的に安全で安心していられる環境」だ。

子どもの頃からたくさんお金を稼ぐことや社会的地位を得ることにまったくといって興味がなかった。
大金を稼いでも、社会的に偉い立場になっても、それだけでは自分にとってのしあわせは得られないと漠然と思っていた。

生きていく上で、自分がしあわせを感じるためにまず必要不可欠なのは、お金でも地位でもなく、「安心」だ。
安心感の持てる時間、場所があってこそ、はじめて社会的立場や物質的なものを得るしあわせを感じられる。
どれだけお金や物や権力を持ったところで、精神的な「安心」が感じられる時間がなければ形だけ得ても意味がない。
むしろ虚しさが増すかもしれない。

この「安心」という当たり前がなかったというのは、大人になってからもなかなかハンデを負う。
どこにいても、なにをしていても常に不安感を持っているので、ストレス過多になる。

また幼少期からコミュケーションのベースとなるのは家族との関係であって、そのベースが歪んでいるとなかなか良好な人間関係を構築しにくい。
(そしてまたストレス過多になる)
周りの人の「当たり前」に対する違和感で疎外感があるのに、さらに孤独感も追加される。
(そしてさらにストレス過多になる)
(なんならストレス過多で病も呼び込む)
ハードモード設定!!!

時間は戻らないし、全部今さらしょうがない。
でもこのハンデを超えて自分にとって「安心」という時間を持つには、どうしていけばいいものかと頭を抱える。

ほんとにね。
ただ欲しいのは、安心して過ごせる時間なんだよ。
でもお金をたくさん稼いだところで、精神的な安心感は買えない。
むしろどこにも売ってない。

形のないものを手に入れるって難しい。

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