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「兄の夢」を一緒に叶える。29歳で大企業のキャリアを捨て、起業の道へ

※今回は、サラダ弟こと、武文謙太の視点でWithGreenを語ります。
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イタリア料理店に来て、前菜のサラダが運ばれてきました。フレッシュなリーフの上に、様々なトッピングが乗っていて、自家製ドレッシングをかけて食べてみます。

(このドレッシングは、玉ねぎのほかに人参、りんご、にんにく……。隠し味はアンチョビかな。ドレッシングにアンチョビ!? 面白い!)

ひと口、ふた口と食べたあとの頭の中は、だいたいこんな感じです。

ぼくは、食べることが大好きです。作って、食べてもらうことも大好き。だからなのでしょうか。多くの人から好まれている料理に出会うと、探究心がむくむくと膨らみます。そして、そのまま自宅で再現してみる。学生のときからの、趣味でした。

洋食屋のドレッシングや有名店のオムライスから、カレーやラーメンなど定番まで。真似をする味のジャンルに、こだわりはありません。

ひと口食べれば、舌ですべての素材がわかるとか、 そんなかっこいいものではないんです。飲食店のキッチンに並んでいる調味料を観察したり、ネットでたくさん検索して情報の糸口をつかんだり。好きなことを重ねていくことで、独学で味覚を鍛えていきました。

はじめまして。WithGreenのサラダ弟です

はじめまして。サラダ兄弟の弟、武文謙太と申します。

武文謙太1

社長である兄の武文智洋と、2016年、サラダボウル専門店「WithGreen」を起業しました。ぼくは29歳で、創業して3年間は、ストアマネージャーとして店頭に立っていました。現在は、メニュー開発や店舗運営を取り仕切っています。

兄は、何を自分のビジネスにするか。30歳から2年間考えて決めました。対して弟のほうは、「食以外は仕事にしない!」。そう大学生の時点で決めたんです。昔もいまも一貫している感情は、「おいしいものを提供して、相手に喜んでもらえることがうれしい」です。

それが、兄弟で同じ未来を目指すという、WithGreenの創業につながりました。今日は、ぼくが、''自分の登る山”を決めた話をさせてください。

客足ゼロ。だからあそびに出かける!? はじめての飲食店運営

食を一生の仕事にしたい!

そう抱く原点になったのは、大学在学中に焼肉店を運営したことです。

アルバイトとして働いていた焼肉屋が、2号店目を開くことになりました。その新店舗運営を、友人とぼくのふたりに任せていただきました。開業資金などは、オーナーさんがすべて出してくれました。こんな貴重なきっかけをくださったことは、いまでもずっと感謝しております。

当時のぼくは、誘われたからお店やってみた。始まりは勢いでした。店は構えたものの、お客さんは来ません。その事実を前に「ヒマだねぇ〜」と言い合い、やることがないから、どちらか1人は店を離れて遊びに出かけていました。ゆるゆるです。

お店にお客さんがなかなか来ない状態は、3ヵ月、4ヵ月と続きました。焦り始めたぼくたちは、夜な夜な相談し、ビラを作ってポスティングしたり、お客さんの目線や立場でメニュー内容を考え直してみたり。やれることは何か。経験が乏しいなりに、調べて考えて動き出しました。そのうちに少しずつ、変化していったんです。

開店から1年経ったころには、いろんなお客さんが来てくださって、お客さんがお客さんを呼んでくれる店に成長しました。足りないことも多かったであろう大学生ふたりの店に、「おいしい、おいしい」と喜んでくれる人たちがいる。その現実に、自分たちのほうが励まされていました。飲食店という場所がつくる価値を、強く感じました。

食品メーカーの営業で「お客さま目線」が鍛えられた

飲食店に面白さを感じたものの、いざ大学卒業後に本業として飲食店をすることには、怖さがありました。というのは、ぼくは、父親が化学メーカーの研究職という固い会社員の家庭で育ちました。企業に勤める以外の仕事人生を、うまく想像できなかったからです。

会社員として、食に携わろう。大学卒業後は、食品メーカーに就職しました。配属されたのは業務用の営業でした。

営業先は、飲食店や給食、介護施設などさまざまです。会社が開発した食品を、年齢、性別、環境や要望も違うお客さんに合わせて、提案をする必要がありました。

たとえば、冷凍フライドチキンを買ってほしいとします。どれだけ味に自信があっても、「おいしいから買ってください!」では、売れません。フライドチキンなら、年配の方が多い場所だと硬すぎるとか、見た目も敬遠されるとか。自分(売りたい側)にとっての理由では、ダメなんです。

徹底的に、お客さんの立場で考えること。焼肉店で頭をひねり続けていたことが、営業の仕事でも大切でした。この姿勢は、お客様が週に何度も食べてくださるWithGreenのサラダボウルの開発にも流れています。

アメリカ西海岸へ! いざサラダの旅へ

「食で世の中を変える!」

起業の具体的な話を聞いたのは、食品メーカーで営業を5年続けたころでした。

「世界で日本食事業をするか、日本でサラダの事業をするか。どちらにするかは決めかねている」。

そう兄は言いました。

自分にそんなことができるなんて、想像したこともありませんでした。ただぼくは、子どもが新しい遊びに飛びつくように、胸がワクワクしました。高鳴る鼓動が抑えられません。

「頭で考えるより心で考えなさい」。『宇宙兄弟』のセリフが、流れていますからね。選択は、決まっていました。会社に、退職の意向を伝えました。勤めていた会社には、感謝しかないです。多くの経験をさせていただき、素敵な方々と出会うことができました。

その後、兄は、世界の食を知るべく世界一周の旅へ。ぼくは、アメリカの西海岸縦断の旅へ向かいました。当時の日本のサラダは、トマト、きゅうり、レタスにフレンチドレッシングが定番です。兄がアメリカ勤務時代に毎週食べていたという、主食になるサラダを体験し、学びたかったんです。

本場アメリカでは、目の前で牛肉やベーコンを焼いてくれて、それが新鮮な野菜の上にドーン! とのっている。肉ドン! 野菜ドン!  もともとお肉が大好物のぼくは、その迫力に興奮しました。食べてお腹いっぱいになる。見た目も大満足。なのに血糖値の上昇も抑えられるから、ランチ後のビジネスパフォーマンスも上がる。サラダの概念は、一変しました。

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このスタイルを、日本の食文化に合わせて進化させたら?   味の妄想やアイデアを考え始めると、止まらなくなりました。兄が国内でサラダチェーンを展開すると決めたとき、ぼくの心も決まっていました。

たくさんの人に導かれて「ぼくの登る山」は決まった

なぜ、実の兄と起業したのですか?

よく聞かれます。

最大の理由は、兄が語ってくれた未来に、惹きつけられたからです。

自分にはなくて兄にある、圧倒的に優れているところ。それは、ビジョンを描く力です。子どものときから、兄が考え出すあそびは楽しかった。まさに、兄から誘われたあそびに、面白そう! と一緒に始めたときと似た感覚がありました。うまくいくかどうかは、まったく気になりませんでした。

実際にやってみると、ほんとうに楽しかった。

神楽坂店、北千住店、横浜店と新店舗オープンのときは、店長をしていたんですね。週に何度も、同じお客さんが来てくれるんです。自然と顔見知りになり、周辺を歩いていると「サラダ屋さん!」と声をかけてもらえました。

「サラダが面白いのは、習慣化することなんだよ」

ニューヨークのサラダボウルを熱心に語っていた兄の言葉は、ほんとうでした。ここまで生活に入り込める飲食店は、ほかにない! 熱いものがゆっくりと内側に広がりました。

おいしいものを提供して、喜んでもらえること。

その食事を通して、つながれること。

この2つの面が叶えられる食の力を、再認識させてくれました。食を通して自分がやりたいことを体現してくれるのは、サラダであり、サラダボウル専門店だった。視界が開けたようでした。

兄には、起業を決めたときから、いまの未来が見えていたのかもしれません。自分が登る山は何か? 兄は長く自問していました。

ぼくの場合は、兄のビジョンにのっかるなかで実感を重ねて、じわじわ、ゆっくりと覚悟が決まっていきました。

趣味としての味の再現と、焼肉屋でバイト。そのバイト先での、恩人でありオーナー。焼肉店を支えてくれた、お客さんたち。そこでもらった喜びから就職を決めた、食品メーカーでの出会い。そして、ぼくの社長となった兄。

たくさんの人たちに導かれるように、自分の登るべき山が、山のほうから近づいてきました。

WithGreenを起業してここまでずっと、日々ワクワクさせてもらっています。こんな登る山の決め方も、アリですよね。

▶︎第5話はこちら
▶︎第1話はこちら

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WithGreenのサラダボウルで、日本のおいしさを


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サラダボウル専門店 WithGreen/ウィズグリーン

編集協力/コルクラボギルド(文・平山ゆりの、編集・頼母木俊輔)


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