エゴと協調の狭間にあるもの

一人ひとりが自分らしくある先にある社会。

自分が納得の行く形を貫く。
それは確かにエゴで、自己満足な側面がある。
そして、その道が後悔ないかは前もっては決まっていない。

協調性が求められてきた日々の先に、大人になるにつれて逆のことが求められる社会。

協調性は誰にとってのなにか。
国にとっての統率しやすさ故か。
人々にとっての支え合いのためか。 

エゴは誰にとってのエゴか。
仮初の協調性よりも、よほど協調的で、多分定年後も続く関係性で、よほど持続可能なのではないか。

流行から続くことが良いこととしているわけではなく、老後の孤独を悪としたときに、耐えぬ人との関わり合いを豊かさとしたときにその方がリセットなく良いのではないか。

故郷を離れてまで企業に努めて、両親と家族を置き去り、祖父母を忘れ、同窓や隣人を消し去る生き方をなぜ故人は選んだのか。

街に出てもライフコストがその分を打ち消す時代に、今もそうあり続けるべきか。

そもそも家計を支えるに必要なコストとされてるものうちある程度は、時代が置き去り、忘れ、消し去ったものに取って代わるのではないか。

失ったつながりを貨幣で買い繋ぐ時代に、
どちらを選ぶのか。

果たしてこれは冷静か。
それとも狂乱か。

一度捨ててみる他ないのかもしれない。
今の居所はいろいろな意味で甘密に溢れている。
自分が否定されない、そんな場所だ。

でも、そうなるとそれで不安になる自分がいる。
優しすぎて、面倒見が良すぎて、旅で言うパッケージツアーのような。何もしなくても一定のお金を払えば、寝床から3食、そして移動手段まで用意されているような感覚に近い。

旅か。

自分が本当に好きな旅はなにか。
それは貧しくも、工夫に溢れ、どれもまだ見ぬ挑戦で、発見と自然がもたらす人外かつ設計外のエネルギーに触れる。旅先は前知識というよりも、思いつき。
もちろん、その先になにがあったかと言われれば難しいけれど、忘れようもない出会いと途切れることのないつながりは手に入った。
多分今のつながりは、ここからいなくなった途端に多くが消える。もちろん本物は残るだろうけど。

僕は基本的には寂しがりだと思う。そのくせ表面的な付き合いは不器用さもあって苦手で、ほんとに興味がないと顔に出る。逆もしかりなのは都合が良くもあるのだけれど。

だとしたら答えは簡単なんだな。
まずは、今気になる二人の大人に会いに行こう。

今の店長やこれまでの店長には謝らなきゃいけないな。あれだけ懇意にしてくれたのに。

別に嫌いじゃないのだけど、もう少しワクワクと不安とあの貧しく豊かな方へ行きたくなってきた。

でも今じゃないな。
もう少し、僕には社会的な修行が必要だ。
あまりにも自分に甘い自分に、枠の中のルールに則って、知恵を振り絞って具体的な成果を出すまで。

そこまでやって、初めて次の場所でも本物であれると思う。隠岐にいってなにができたのか。学生であればこそ、大人になったからには大人として考え、満足のゆくものを世の中に生み、ワクワクの止まらないつながりを手にしたい。

もう少しは修行。

エゴと協調の場所でも狭間にあるもの。  
それは今であり、過去であり、未来である。
そして、自分である。





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