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存在の耐えられない軽さ-8ハウスの孤独

タイトルは昔の映画からだが内容は関係ない、ということでw

今さらなことなのだが、最近やはり気づいたことがある。私のような特殊な職業の人間はあまり深く人と関わらない方がいい。というか、あまり他人を近づけないほうがいいのだと… 仕事以外ではとくに頻繁に人と会うことをしない方がいいのだという結論に達したりした今日この頃。仕事にしても、お客さんや生徒さんとの距離の取り方には十分注意する必要がある。

たぶん余所よそしいくらいがちょうどいい。関わらないというわけではないが、決して慣れあわず、ちょっと挨拶して軽い世間話を交わす、そのくらいがちょうどいいのだ。

でないと敏感な人によろしくない影響を与えてしまうこともある。学習すべきだ、そこは。

私は目立つのが好きではない。一般の仕事をしていた時も、目立ちたくないから息をひそめて陰にいようとはした。でも、目立ってしまう。顔立ちが、というのではない(十人並みのブス)。どうも私のオーラは異様というか、普通ではないのだ。輝いているとか光っているとか、カリスマ的な何かとか、そのようなポジティブな意味ではない。最後に勤務した派遣の仕事では「ただもんじゃないていうか、普通じゃないオーラだもの、十分目立ってる」と言われてしまった。そう、悪い意味で。恐れられるとかそういう気迫があるわけではない。つまりは叩かれやすいし、突っかかれやすいし、反発を抱かれたりだの、ターゲットにされやすいというもの。

普通のOLとして(実際そうだったけど)、お会いした幾人かのユタの方には「あなた、普通の人ではないね?? そのオーラがすべてを物語っている。普通の人がそんなん背中にしょっているもんか。一体どれほどのものを背負っているの」って言われたけど、私には自分のオーラのことなんてわからない。異様で特殊なオーラと言われても、何がどう異様なのか、困ったことに自分ではさっぱりわからない。

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ああ、そう言えば、30年前に働いていた占い館で先輩にも言われたことがある。「ものすごく大きなオーラで、ぐわっとね、最初会ったときに来たの」ぐわっとって何??って感じだけれどもww  それは単純に生意気で態度がデカかったからではないのかとも思う。つまりは悪目立ちするやつということでもあると、そこは暗に。

さて、誰とも関わらないということではない。古くからの、数十年来の友人もいる。彼女たちとは頻繁には会わないし(年に一回とか数回)、ありがたいことに敏感すぎることもないし、極めて現実的な人たちでもあるから、一緒にいてもたぶん私の悪い意味での影響を受けない人たちなのだ。相性が良いのもあるだろう。だから、私の特殊なオーラが放つ異様さに耐えられる人もしくは気にしない人だけが長持ちする人間関係であるともいえる。

自分自身の職業の特殊性を考えた時に、そしてこの異様と言われるオーラの悪い意味での影響力を鑑みるに、マメに会う人は選ぶべきであろう。それは出入りする場所も同じだ。汚染することはないにしても、私は敏感な人に刺激を与えてしまうし、その人の何かを引き出してもしまう。また、仕事の場や相手であればいいのだが、その人の周囲にある存在に反応してそれを読み取ってしまうことも多々ある。そうしたデータとしてのエネルギーを読み取るくらいならいいが、"使われて"しまうことにもほとほと辟易する。近づかなければ読まないで済む。それらを回避するために、スルー出来る距離がお互いにとっても一番良いのである。

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「霊能者とは孤独なものだ」とはかの江原さんが言っていたセリフだ。確かにそう思う。いやさ私は霊能者ではないのだが。誰かと自分の見ている世界を共有できないというのは実に孤独で寂しいものだ。明らかに私の見ている世界や事象というのは、他の人が見ているものとは様相が異なっている。私が見ている世界は、他の誰とも共有できない世界だ。

極めて現実的で良識のある長い付き合いの友人曰く、「あなたが気が狂っているとも、変人とも思わないけどね」とのこと。さあ、どうであろうか。お陰様でIQ134は一般の人よりは高いらしいので知能に問題があるわけではないだろうが、だからといって、それが私が正常であるという証拠にはならない。常識的でマナーの良い、良識人などという保証にすらならないのだ。

占星学的に言うならば、8ハウスの太陽とは孤独なものであるという。8ハウスはグル(師匠)を損失するハウスであり、もっとも幸運たる9ハウスを損失したハウスであるので、もっとも不幸なハウスなのだそうだ。保護者であり庇護者である父親的存在、そうした存在との接触が許されず、甘えや依存が一切許されない、人生の導き手を欠如したハウス、そこに私の今生の道しるべである太陽が位置している。だが、同時に海王星があるということは、私の導き手は「目には見えざるもの」でもあるのだろう。誰からも理解されない中で、同胞すら求められない孤独の中で、自分の感覚だけをよすがとして自分だけを頼りにして、誰にも依存せず、たった一人で道を見つけなければならない。この世に誕生したその日から、8ハウスの太陽が孤独な人生を暗示していた。母が私の誕生を望まず、呪ったように、そこにはすでに父の存在もなかった。

8室は洞窟の中で瞑想する孤独な修行者の精神的挫折を表わすハウスである。この8室の象意の中にいる時に、修行者には全く神やグル(師匠)からの祝福も啓示もなく、インスピレーションもなく、とことん神(9室)に無視されるのである。「ラオ先生のやさしいインド占星術」(Learn Hindu Astrology Easily)より >>>鑑定家ジョーティッシュ氏のサイトより参照

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そう。亡くなった人、この世にはあらざる人しか導き手はいない。例えば、故人たる人の著書とか、現実では会うことの出来ない人たちからの情報に頼る以外には。

同じ世界、同じものを見ている人がいないという事実は自分が異端であるということを認めることでもあり、他人と違う世界に生きている自分を受け入れるしかない。「他人と自分は違うのだ」という問題。自分の特殊性を理解し、自分が見ているものを他人も見れているのではないということを承知して、その上で折り合いをつけていかなければいけない。

なるほど、私は自閉症でもないし、アスペルガーとか発達障害には相当しないらしいが、それでも私という人間の思考や行動は他人には相当理解しがたいものであるらしい。とはいうものの、職場などで上手くやれないわけではない。何か問題を考えるときの視点とか、それに対する対処の仕方や解決法が変わっているといったところか。

小学生の頃に限って言うならば、勉強は出来た方だと思う。テストで100点満点を取ることを誇らしく、快感を覚えるほどには点取り虫ではあったから。だが、小難しく長たらしい方程式など使わなくても答えは出せるし、わかるんだからと、ダイレクトに答えを書いたならば、方程式を使わないことを怒られたし、国語の読書感想文に選んだ本は子供が読むような本ではないと、これまた一喝された(ロシア文学なのに)。理科の授業では先生にあれこれ質問したならば、煙たがられてはぐさかれるのが毎度だった。お陰で学校の勉強がすっかり嫌いになってしまった。みょうちきりんな理屈で先生を言い負かす私は、悪い生徒、周囲に混乱をもたらす問題児の手本でもあったのだろう。

職場の研修において書くように求められたテーマも松下幸之助氏の「経営論」について絡めたものを提出したのだが、そのような小難しいものは求めてられていないらしかった。生憎と私は大学なぞ出ていない。レポートの書き方など教わったこともない。高校も不真面目に仮眠を取りに行っていただけで、授業などろくに受けてもいないから、義務教育のレベル程度の教養しかない。

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今はもう、他人とは異なる自分の特性を受け入れることも出来たし、ここのところでずっと望んでいた穏やかな普通の生活を手に入れられたとも思ったが、やはりそれは難しい、甘く儚い夢なのである。

なるべく他人を巻き込んではならない。そのような言い方、まるで893がカタギの人を巻き込むなって言っているような、それに近いような気もするけれどw  他人行儀な距離であれば、巻き込まずに済む。とにかく近づきすぎないこと。そういう意味でもっと独りに慣れないとな、とも思ったりする。うん、人恋しさから、里心をつけるものじゃない。

常連になる場所にしても職業は隠して、立ち入ったことは話さぬのがいい。もっと目立たぬように、気配を殺して、空気のようになる練習もしよう。

そうすれば必要以上に影響を与えたり、見えない存在たちに"使われる"こともほとんどないだろうから。

そういうわけで今生の人生は、私にとってはまさに修行たる人生であり、次に至るための試練の道なのである。

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