見出し画像

「頼る」チカラの処方箋

支援、という仕事をしていると、「自立」とか「就職」とか「社会参加」とかそういったものにベクトルを向けて僕らは支援者としての役割を遂行していきます。
 
 
それと同時に僕は「マネジャー」、つまり管理職としての役割を担っている時間もそれなりに長く、立ち位置は一見違うようですが、意外とこの役割も働くスタッフを支える、という側面を持っている仕事だな、とずっと思っています。
  
 
その両方を通じて気づくのは、人が前に進むために必要なこと、そして前に進めないで立ち止まってしまう要因になることにはいくつも共通点がある、ということです。
 
 
その中で結構大きいことなんじゃないかな、ということについて書かせてもらいます。
 
 
 
それは、「頼る」チカラについてです。
 
 
 
 
生きづらさを感じている方や一緒に仕事をする中で「しんどいだろうな」と思える人に「頼る」ということがめちゃくちゃ苦手な方が多いな、と思います。
頼る、という表現だと少し分かりにくいかもしれないですね。
「困った時に相談する」とか「人の好意に時に甘える」とか「助けを要請する」とか、そういった類です。
 
 
誤解を恐れずに言うと、僕には「自分は1人で大丈夫、なんとかするので。全然平気ですよ。」みたいに、意識的なのか無意識なのか分かりませんが、実態とは乖離しているけれど装っているように見えてしまうんです。
 
 
聞いてみると「頼り方がわからない」とか「頼ることが今までなかったから」とか「頼ったり甘えたりしてはいけないものだと思っていた」とか、そういう答えが返ってくることが多いんです。
 
 
なぜそうなってしまうのか、という部分についてはおそらくその人その人で今までの生育歴だったり生活環境などの背景の中で「頼る」ということへの価値観形成に歪みが生まれてしまっていてそのまま成長してきていることなどの背景があると思うんですが、それを合わせて書いていくととっ散らかっていくので、それはまた別の機会で触れようと思います。
 
 
 
 
 
「頼る」ってどういうことなんでしょう。
 
 
ニュアンス的には自分の力だけでは足りない物事について「教えてもらう」とか「手伝ってもらう」とか、もう少し直球で言うと困っている時に「助けてもらう」とか、そういった意味合いの言葉が含まれているものだと思います。
ある意味では「ご好意に甘える」と言うのも頼ることの一つだと僕は認識しています。
 
 
冒頭の「頼れない」タイプの方というのはシンプルに、「頼るという経験が不足しているから頼り方が分からない」と、「頼る、ということがよくないことだと何であれ思ってきたから自分の選択肢の中に『頼る』というものがない」のいずれかが多いんじゃないか、と思うんですが、それとは別にもうひとつ「頼る、の加減が分からず、依存になったり丸投げになってしまいがち」というタイプもあるんじゃないかと感じています。
 

 
もう何万回も聴いたような話かもしれませんが、改めて整理のつもりで書かせてください。
 
 
 
これはよく利用者さんにお話しする話なんですが。
 
僕は今42歳です。一応法人の理事として経営にも関わらせてもらっているし事業所の所長もさせてもらっています。家族もいますしそれなりには一般的な社会人と相違ない生活をしています。自立した社会人、と呼んでもそこまで問題はないかと思います。
 
 
でも僕はこの歳になっても知らないことの方が圧倒的に多い自信があります。20歳の方よりは知っていることは多いかもしれませんが、20歳の方が知っていることでも僕が知らないことが山ほどあります。
 
 
そして僕が完全に1人でできることなんてほとんどありません。
家庭だって仕事だって1人でやれていることなんてまずなくて必ず誰かの手を借りています。
ちょっと極端な言い方かもしれませんが、仮に一人暮らしをしてても、ご飯だって毎日自炊なんて絶対できないので、飲食店を使いますし、服だって自分では作れないので服屋さん頼みです。掃除も洗濯も全部手作業でなんてできないので電化製品を買いに電器屋さんに行ってしかもどれがいいのか分からないので店員さんに聞いて教えてもらってようやく選べます。
 
要はいろんなものの助けを得てようやく僕の生活は成り立っていますし、僕の「自立」は成り立っています。
 
 
 
「いやいやご飯や服や電化製品なんてお金払って買ってるんだからそれは違うでしょ」と言われるかもしれませんが、誰かがご飯屋さんをしてくれてなかったら、誰かが服屋さんをしてくれてなかったら、洗濯機や掃除機を誰も開発してくれてなかったら、たとえお金があったって無理です。
たまたまそういった社会資源があって、それがお金を払って頼むことができる仕組みがあるから頼めるんです。買えるんです。
 
 
 
 
屁理屈みたいな話ですが、「頼る」ってものの本質はこういうことだと思うんです。
 
 
世の中って、誰かの困りごとを誰かが解決する、の繰り返しで成り立っていて、誰かが困って「助けてくれー」って声を出してきたからアップデートしながらよくなっているんです。
 
 
頼ることが悪いなんてとんでもない。
 
 
僕なんかの例が適切なのかどうかは分かりませんが、むしろ「全部1人で出来ます、1人で生きてきました。」の方がよっぽどの奢りです。
支援現場では「自立」という言葉をよく使いますが、自立というのはつまり「めちゃくちゃあちこちに頼っているし助けてもらっているし甘えている」ことなんです。
 
 
頼る、僕は就労支援の場面では「相談する」という表現を用いることが多いんですが、むしろどんどん頼るべきなんです。 
 
 
自己責任、なんて言葉も最近ではよく言われますよね。
確かに自己責任自体は大切です。自分でとるべき責任というものは必ずあって、それを放棄しているとすればそれはよくないと僕も思いますが、そもそもじゃあ自己責任が何なのか、なんてどれほどの人が分かっているんでしょうか。
自己責任の土台ってみんな違うじゃないですか。それこそ20歳の学生さんの自己責任と42歳の僕の自己責任はそもそも言葉は同じですが、そもそも土俵が違います。
「自己責任」論を大義名分のように唱えてその対立構造として「頼ること」や「甘える」ことを対極においてしまうのはとっても乱暴な話でしかないと思っています。
 
 
 
大事なのは「頼る」ということをしっかり知ることなんじゃないかと思うんです。
 
 
 
 
ちょっと僕の例に戻りますが、僕は仕事面でもいろんな人に頼っています。もちろん生活面でもですが。
いろんな人にお願い事はしていますし、知らないことは「教えて」って聞きますし、何かアイデアが浮かんだ時は仲間とかに「こんなこと考えているんだけどどう思う?」って意見をもらいますし、何なら行動を起こすときに「手伝って」と頼みます。
 
 
ただ、その分頼っている人に必ず何かお返しをしようと思っています。
それはお店とか仕事なら対価としてのお金だったりすることもありますが、それだけじゃなくて手伝ってもらった分相手の仕事を手伝ったり、手伝ってもらう分相手にも取り分が生まれるようにしたり、何かを教えてもらったら相手に有益なことを教えたりしますし、誰かのアイデアは一緒に手伝ってカタチにすべく尽くします。
 
 
 
僕の定義ですが、「頼る」ってGIVE&TAKEの構造と似ているんだと思います。
頼ることは確かにTAKEかもしれません。でもその分GIVEをお返しすることでフェアなんだと思います。
 
 
周りから頼られている人って、よく見ると大体周りに頼っています。
 
 
誰にも頼っていない人って得てして誰にも頼られていなかったりします。
 
 
あらゆる人間関係でもそうじゃないですか?
会社の上司で誰にも仕事を振らずに全部1人でやっている人についていきますか?頼りますか?
いつも何でも全部自分1人でやってしまって全然何も頼んでもくれない友達に頼るのってちょっと萎縮しませんか?
 
 
 
頼るって、それ自体は全然生きていくのに必要なことで、むしろ大事なのは頼ることがあったらその後「自分ができる何か」で頼ってもらおう、手伝ってもらったから手伝おう、くらいの「お互い様」ができればいい、くらいのものなんです。
 
 
「頼る」という一面だけを捉えてしまえばそれは「TAKE」だけを欲するような図式になるからまるでいけないことのように見えるのかもしれませんが、多分世の中で誰1人何にも頼らず生きてられている人はいないはずです。
少なくとも人間は「頼り」「頼られる」のキャッチボールをしながら生きていくものなんだと思っています。
 
 
 

 
 
ただ最後に「頼る」ことでひとつだけ履き違えちゃいけないことだけはあると思います。
ここを履き違えてしまうと「頼る」の意味から違ってしまうんじゃないか、と思うことです。
 
 
ちょっと前に「頼る、の加減が分からず、依存になったり丸投げになってしまいがち」というタイプがある、と書きました。
 
 
これは意識的でも無意識的でもあるかもしれないんですが、シンプルに「頼る」という言葉にはいろんなニュアンスが含まれていると思うんですが、「全部やってもらう」「全部面倒を見てもらう」という意味だけは多分ないと思うんです。
頼る、という言葉は自分が行動の主体であって、それを補助するというような意味合いのものだからです。
 
 
例えば1人の人に「頼ってる」つもりでありとあらゆる事を頼ってしまえばそれは余程の合意がない限りは「依存」と呼ばれます。それは頼る、ではなくただのおんぶに抱っこになってしまっているからです。
 
 
そして、「頼っている」というつもりで自分のことを相手に全部やってもらう、つまり丸投げしてしまうのもそれは頼っている、じゃなくて放棄している、になります。
 
 
それこそ自己責任という言葉の履き違えと同じことなんですが、確かに頼る、というのはごく少量の「依存」をまとってはいるんですが、それが集中してしまえば満杯の依存になってしまい、頼るという言葉のもとに自分のことを相手に丸投げしてしまえばそれこそ自己責任論の話になってしまいます。
 
 
そしてそこにGIVEが返されなかったらそれはもう「頼る」とは言えません。
 
 
 
 
 
ちょっと本末転倒な結論になるかもしれないんですが、「頼る」というのは生きていくのに絶対に必要なものです、スキルです。
頼ることができなければ、多分どんな人も生きづらくなるんじゃないかと思うんです。
 
 
でも、コミュニケーションとかと同じで、「頼る」というのもやってみなきゃそのバランスは分からないんです。
だから僕らは子どもの頃は親にずっと頼るんです。そこからだんだんお返しすることを覚え、頼ることと頼られることのバランスを経験を通しながら身につけていくものです。
 
 
大人になってしまうと急に誰も教えてくれはしないし、その経験値は積みにくいのかもしれませんが、生きづらさを持たれている方には、僕ら支援者が「頼る」とか「甘える」ということをしっかりと伝えていくこと、体験を積んでもらうことをひとつの支援としてしなきゃいけないと思っていますし、これはマネジメントでも同じことが言えるので、チームや会社をマネジメントする立場の人ももしかしたら「頼り方が分からないで立ち止まっている」メンバーに向けて、「頼る」ってことを教えていく必要があるのかもしれません。
 
 
 
自己責任、という名の下に「頼る」というものが悪になってしまうのだけは違うので、そこはもっといろんな立場の人が知っておかなきゃいけないんじゃないか、と思って書きました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?