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支援という名の様々な齟齬が生まれてやしないか?

支援、とひと口に言っているけど、その実体って色々な齟齬が含まれているような気がするんです。


福祉サービス、と言われたりもするから「全てお膳立てされている」事が支援とされていたり、支援者への依存により一見の安定が見られている状況を支援としていたり、一見統制されているけれど実は支配になってしまっているものを支援と呼んでしまっていたり…。


意外とそこに無自覚な支援者もいれば、表面上の安定により支援が上手くいってる、と一般に見えていたりしてしまってる事もあって、ここの見極めがなされてるばかりではない気がする事も少なくありません。

ちょっと誤解を招くかもしれませんが、人が人生を歩む、ということは障害の有無や生きづらさの有無に関わらず、それぞれが何かしらのコストや負荷などを各々なりに背負いながら生きているものなんじゃないか、と思うんです。


その中で不合理なもの、理不尽な事柄、そしてご本人にはどうしようもない問題や課題については当然サポートも必要だし、人が生きていく環境、というものも誰かにだけ不平等が起こらないようにしていくことは必要だと思います。


お膳立てが必要な場面、もあるかもしれません。
「一時的」に心の宿木だったり拠り所として頼る、依存することが必要な場面もあるかもしれません。

でも、それが当たり前になることは巡り巡って本人が自分の足で生きる、ということを奪ってしまうことになります。支配も同じですね。


支援というのは、プロセスの一つの選択肢として「お膳立てをする場面」があったり、「頼って寄っかかる時期」があったり、という押し引きをしながらも最終的にはそこから少しずつご本人の人生をご本人にきちんとお渡ししていくことが本質のような気がします。


とにかく問題が起こらず毎日一見した安定さえしていてくれたらそれが支援として正解なんだ、というふうには僕は思いません。
むしろ人の人生なんだから、いいこともあれば悪いこともある、いろんな波が起こるのが当たり前で、大事なのはそれをどうやって乗りこなしていくか、というところじゃないかと思うんです。


その力をお渡しすることができないのであればそれは支援、とは呼ばないような気がするんです。


もちろん、全て自己責任論に帰するつもりはありませんし、ご本人の状況によっては長期間に渡ってお膳立てが必要な場面が連続することもあれば、どうしても頼りが必要な状況が長くあることもあるとは思います。


それだけ対人援助、というのは一面的なものではないと思っていますし、支援の結果や成果、というのは少なくとも僕ら支援者ができるだけ不要になることだと思っています。

その辺りを僕ら支援者自身も自覚を持って取り組まなきゃいけないと思いますし、支援を受けられる方やその周辺の方ともきちんと擦り合わせておかないと、おかしなニーズと提供のマッチングが起こってしまうんじゃないかなぁ、と危惧します。


僕自身も改めて自戒しながら日々の支援にあたらなきゃいけないな、と思いながら収録しました。




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