大学生活

 今日は朝鮮語の授業を受けるために学校に行った。「朝鮮語」の部分をより耳馴染みのある表現にすると、韓国語の授業だ。我が校では「朝鮮語」という科目名で、朝鮮半島で使われている言語が教えられているのだ。理由は学期の最初に説明されたのだが、大意では「大した理由はない」ということだったと記憶している。別に、朝鮮語を教える教授陣が、朝鮮半島が北朝鮮と大韓民国という二つの国家に分断していることを受け入れず、強靭に統一を主張しているとか、そういうことではない。まあとにかく、今日はその朝鮮語の授業を受けに行った。
 少し早めに着いて、まず図書館で小テストの勉強をする。昨日の晩に覚えた朝鮮語のつづりをもう一度確認した。昨日眠りそうになりながらやったので、やっぱりあんまり覚えていなかった。二、三度確認する。大体大丈夫になったところで授業開始15分前になったので、図書館を出て教室に向かった。ちなみに、こんな風にテスト直前に勉強して、実際テストではいい点が取れても、テストが終わると全て忘れてしまっている現象は、記憶が意味記憶ではなくエピソード記憶として記憶されてしまっているということで説明できるらしい。意味記憶はいわゆる知識で、それに対してエピソード記憶は「思い出」みたいなものだと思ってもらっていい。エピソード記憶だと、その知識を覚えた場所や時間(この小テストの例だと図書館や授業前の時間)などの、通常知識には付随しない”状況”もセットになって記憶されている状態だ。だから、その状況を離れると思い出しにくいというわけである。まあしかし私の場合は、勉強しないと単位が取れないから勉強しているだけであって、本当は興味があるわけではないから、すぐ忘れてしまうのではないかと思わないでもない。
 授業が始まるとすぐ解答用紙が配られた。先生が読み上げた日本語を朝鮮語に直す。さっき覚えたばかりの朝鮮語を、図書館の匂いや、隣のテーブルに座っていた人の来ていた服や、覚えるために書いた紙の薄さなんかと一緒に思い出しながら、書く。カンニングしている人が先生に怒られている。これまでの小テストは全て0点になるらしい。一番前の席でカンニングペーパーなんか出してたら、見つかるよなあと思う。
 返ってきた小テストは満点だった。ついでに、この前受けた中間テストの点数も書いてあって、こちらは98点だった。
 しかし、同じことではないかと思う。カンニングペーパーを見たか、エピソード記憶に頼ったか。カンニングペーパーを、彼は紙に書き、私は頭の中に書いた。それだけの違いなのではないかと思う。思うけれど、私はそういうことは気にしない。学校に戻るときに決めたことだ。もしカンニングペーパーを見ながらテストを解くことと、ついさっきテストのために覚えた知識を参照しながらテストを解くことが、本質的には同じであっても、私は気にしないことにした。ただ、不思議に思うだけだ。私には同じに思えることでも、他の人にとっては全然違うこともある。だから、私は今日もせっせと暗記する。興味が持てなくても、意味なんかなくても、私は大丈夫だ。夜、寝る前に一度暗記して、眠って起きたら、また同じものを暗記する。そうすれば記憶に定着しやすくなるからだ。好むと好まざるに関わらず、私はそうやって毎日何かを暗記する。そしてテストの日、さっき最後に確認した時の手の動きを思い出しながら、解答欄に答えを書くだろう。あるいは、さっきと同じ思考回路でもいい。
 テストが終わったら、家に帰って、本を読む。映画を見る。それは、面白い作品かもしれない。そしたらきっと、何度も何度も見る。内容を諳んじるくらいに、何度も。本当は、そういうことに時間を使いたいのだ。人生、何が役に立つかはわからない。確かにわからないが、過ぎ去ってしまったらもう二度と思い出さないようなことに時間を奪われ続ける人生は惨めだ。
 多分、期末テストでも、私はいい点を取るだろう。一週間前から暗記し始めて、直前にも確認する。小テストと同じように。そして、次の学期も同じことの繰り返しだ。きっと、続けていく。延々と。

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