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コロナ前後の孤独感がまた書き出すキッカケに

書くことが好きでした、昔から。ノートに書きなぐる事でしか自分の怒り、虚しさ、悲しさ、叫びを吐き出す場所がなかった。

30代を過ぎてこれまで人生で何度と言えず燃え尽き、立ち上がるを繰り返す内に書くという行為が苦痛になっていきました。

声で伝える方が自分に合っているのでは?と思うようになった。

思えば声を使い、沢山トラウマを話してきたけど、それは正しい相手に話す事で意味がある。

その時の私は批判されたり理解されない度に話す事がどんどん苦痛になり吐き出してスッキリした記憶は全くない。

自助グループという存在を知り20代後半~30代前半にかけ参加したが海外の知人に聞いた内容とは大きく違い、それか原因かどちらにせよ自分には馴染めなかった。

声を使って表現したつもりなのに、言いっぱなし聞きっぱなしだけのファシリテーターがいてもそれをするのが今日初めてですという未体験の人が多く暴走して他の参加者を不安にされる人を食い止めないままの会も沢山ある。

毒親なんか!というイベントに参加しようとしたがベクトルの相違で参加する前に解散してしまった。 

講座にも参加した。しかしそこは傷をおった人が他のサバイバーと視線を合わせない場所だった。

勿論、直接、毒親育ちの人と偶然色んな場所で出会い話した事も何度もある。

実際、虐待は全く珍しい事ではない。

みんな後ろめたくタブーにしたいだけ。

動物虐待なら騒ぐ人も人間の虐待にはしり込みする傾向がある。

思うに毒親なんか!のイベントでベクトルの相違が起きたのも、私が似たようなバックグラウンドの人と会い話しても反りが合わなかったのと同じ。

虐待を受けた事実を受け止められず庇う事で自分の体験を直視出来ない人が沢山いるから。

ただそれだけなら良いけど、それを相手に強制する人も出てくる。又はお互いがそうなる。

本来簡単には吹っ切れない物かもしれない。

しかし、私が声をあげて言いたいのは、決定的に違う体験は性被害を受けたか、受けてないかが大きくトラウマと育成には影響していると思う。

虐待の傷を比べるなと言う人もいるが、私はそうは思わない。

あまりに悪列な環境でありとあらゆる形で虐待を受け辱しめを家族親族全体から受けてきた人とそこまでではない人との間には大きな隔たりがあると私は当事者として感じている。

私にとって大きな支えはいつも音楽だった。

大きなライブよりパブでfriday nightにやるライブの方が好き。

英語の曲ばかり聞き、人生の大半日本語と同じくらい英語で色んな国の人とコミュニケーションしてきた自分に取ってそこはまだ幾らか馴染める場所ではあった。それでも、人混みの中にいるといつも自分は誰の目にも映ってないと感じた。

どちらの孤独がいいだろう?一人きりの孤独か?

大勢の見知らぬ人の中にいて感じる孤独?

それは比べられないもの。

ただ一つ違うのは社会と繋がりがあるか、ないか。

これは大きな点だと思う。

人は社会にどれだけ酷い目にあっても社会と切り離しては生きられないし、人間嫌いでも人からのサポート無く生きるのはどれだけ強い人であろうとも無理だから。

コロナが起こらなければ私はあるイベントに参加する予定があった。殻を破りまた社会とリンクする為に。 

ネットで友人作りもアプリが普及し過ぎてからとても難しくなっていった。

昔はコミュニケーションが取りやすい趣味や悩みを話せるサイトも幾つかあったが、シャットダウンしてしまった。

2016年以降、私は現実でもネットでも人との強い結びつきを見つけられずにいる。

しかし、コロナで孤独や不安が一気に加速し、こうしてnoteを始めるキッカケになった。

そして、これからblogの最後に私のお勧めの曲のリンクを載せて行こうと思う。

"The SINNER" という海外ドラマ(NETFLIXで配信中)で使われていたこの曲が大好きで繰り返し聞いてます。現実逃避したい人や洋楽EDMなどが好きな方は是非聴いて観て下さい。

それでは、今日はここまで。

皆さんが悪夢をみず少しでも良い眠りにつけますように。

最後まで読んでくれた方有難う。