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ずっと現代文でいいのに。

 記事タイトルは、高校時代の私が毎日のように思っていたこと。特に数学と体育がある日は必ず思っていた。「もうやめて」と言っているのにいつまでも私の理解できない話をしてくる数学も、そういう時だけ馴れ馴れしくしてくる体育も嫌いだった。

 恋をするまではいかずとも、私は現代文の授業を求めていた。
 理由はたった一つ。現代文だけは得意だったからだ。

はじめに

 さて、今日は久々に小説ではなく、noteを書こうと思う。
 最初は、違うハッシュタグで放置してた記事を上げちゃおう……と思ったのだけど、書きかけの中身とハッシュタグがまったく合ってなかったのでやる気をなくした。なので他に何かないかなーと探していたら、この「#現代文がすき」というタグを見つけたというわけである。

 一応言っておくが、これから書かれていることはあくまで私個人の感想なので、それをご了承願いたい。
 あと、私は小説を書いたりもしているけれど、別に高名な作家というわけでもないし、もちろん教育者でもない。仮にそうだったら、お金ないからって茹でたパスタにツナ缶ぶちこんで調味料をポイポイしただけで「自炊した」なんて言ってないと思うんだよね。本当に金のない人間は「節約レシピのご紹介。材料はたったこれだけですって紹介された材料すら買えないんだよ。

 ———おかしいな。

 部屋の中にいるはずなのに、まるで雪が降ってきたみたいに、さっきから視界がきらきらと滲んで見えるんだよな(鼻をすすりながら)。

わたしと現代文

 小・中学校の「国語」の時代から、私の得意科目は国語だった……というかそれ以外に得意な科目がなかった。古文漢文が出てくるまで、国語の科目の試験勉強は一分たりともしたことがなかったけれど、現代文に限って言えば無勉でもほぼ九割くらいの点数を安定して取ることができていた。この言い回しをしている時点で、もう古文漢文についての言及は無用である

 しかし、今の私が学生さんに「現代文の勉強ってどうすればいいんですか?」と訊かれても、私は「まあ、新聞でも読めばいいんじゃない」「本でもいいよ。電子書籍でもいい」「そういえばこの西野夏葉って人のweb小説がおもしろいよ」とか、地獄みたいなことを言ってしまうと思う。

 要は、私にとって現代文は確かに得意科目だったけれど「どうやったら現代文の成績が伸びるのか」ということは自分でもわからないまま、学生時代を終えたのだった。ただ、このままだと記事がここで終わってしまうので、ちょっと真面目に考えてみることにする。

 ……いや、いつも真面目だよ?
 ごめんなさい誤解を招くようなこと言っちゃって(昼下がりの団地妻っぽい声で)。

点を取るだけなら、の話

 なにしろ私が学生だったのはもう十年以上前の話なので、自分が現代文のテストの時に何を考えながら問題を解いていたのか、ポルノグラフィティには負けるけど本気出して考えてみた。

 だいたいこんな感じだったと思う。

・選択問題は「こんなことまで言ってないだろ」っていう選択肢を外してから本気出す

・自由記述はとりあえず何か書いておく(空白を作らない)

・作品を書いた人間というより、むしろ問題を作った人間の心理を読み解く

 一つ目は、特に高校のときの現代文担当だった教師が、放課後講習のたびに口を酸っぱくして言っていたので自然と身についた。
 その人は「まず、これの①ね。これ選んだ奴はもう鼻の穴に火をつけた爆竹を突っ込みます」みたいなことを穏やかな口調で言う教師だったんだけど、教え方がわかりやすいし、国語の教師なのに数学や英語のことを訊いても答えられる人だったので、私に志望校のワンランク下の大学をやたら勧めてくる以外はそこそこ好感を持っていた。
 講習でプリントを解かせて、その解説をするときは、いつもこの切り口から入った。「まず、本文中でこんなこと言ってねえよ、ってものから捨てましょう。話はそこからです」みたいな感じ。おかげさまで試験本番でもだいぶ助けられた。「そんなこと言ってない」か「そこまで言ってない」って選択肢を省けば、あとはそれほど難しくなかった記憶がある。

 二つ目は、語るべくもない。数学だって途中式を書かせて、一歩及ばず惜しければ点を与えたりするわけだし、まあそんなもんなんじゃないだろうか。私は何も書かなかったけど(数学はさっぱりわからなくて何も解けない問題の方が多かったので)。

 さて、三つ目。こんなこと言っていいのかなあと思いつつも、敢えて言う。

 どうせ問題作った人間だって「たぶんこういうことが言いたいんだよなこの人」って推測しながら問題とその解答を作ってるよ。たいていの場合、問題作成者が文章書いた本人なわけじゃないだろうし。
 誰が何をどう読んで何を感じようが、どうせ人間なんて自分の信じたいように信じる生き物なんだし好きにしたらいいとは思うのだけど、これが試験となると話が別なので難しい。だったら出題者の「とりあえずこの問題ではこれが正解、ってことにしよう」に乗っかった方が、点数も取れてオイシイよね……と思いながら解いていた記憶がある。

 もっとも、大学入試などの試験科目に現代文が設定されている意味と、日本の学校において、学習指導要領にのっとって現代文を子どもたちに教えている意味はきっと全然違うと思うから、あまりぐだぐだこねくり回すと宗教戦争に発展しそうなので、この辺にしておきたい。

いま思い返すと、の話

 ここまでだらだらと、さして興味のない友人の恋愛観みたいなことを書き連ねてきたが、結局のところ、想像力や読解力が培われていないと他の科目の問題文を読めないし、読めたとしても答えを表すための言葉を紡ぐことができない。
 また、そうした力がなければ日常の中でも相手の気持ちをしっかりと理解することができず、他者とのコミュニケーションをとることが難しくなっていく。
 社会とか総合学習とかいろんな科目がある中で、そうした能力を身につける上で大切な科目というのは、やっぱり現代文なんじゃないかな……という気がしてくる。

 そうやって考えてみたら、やっぱり学校で現代文を学ぶ意味は大きいのだろう。
 幸いなことに私は現代文が得意かつ好きだったし、特に苦しまずに自然と学ぶことができていたんだなあ……と思ったりした。

 いま活かせているのか、と問われたらまた別の話だけど。

さいごに

 たとえば「大好きだよ」っていうフレーズひとつ取り上げても、それを耳にして「ああ、やっぱり人を好きになるっていいよね。わたしもだいすきだよ」って思う人がいるのと同時に「仮に今の恋人と別れて違う奴と付き合ったらそいつにも平気な顔して同じこと言うんだろクソが」って思う人もいるわけであって。

 だから「自分が考えたことを言葉にのせて、考えた通りの意味を読み手へ伝えるのって難しいな」と思う。自分で小説を書くようになってから、そう思う回数は、それまでに比べると明らかに増えた。

 ただ、正直言って私の書く文章なんか、まだお湯に叩き込んだばかりのパスタ麺みたいに固くて、柔軟性に欠けると思っている。
 あの頃、現代文の授業中に退屈で勝手に教科書をガンガン読み進めていた時代を思い出しながら、これからもアルデンテを目指して頑張っていきたい。


西野さん 最後のパラグラフは要らないです(赤ペンで)

#現代文がすき

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