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恋とか愛とか、友人から恋人への移行とか、そもそも「好き」とは何なのか。

好きって、結局何なんだろうか。
恋愛感情での「好き」は、それ以外の大きな枠組みの「好き」と異なるのだろうか。

私はここ最近、この「好き」という感情について、たびたび思いを巡らすことがある。私の中で、この「好き」を人に対して使う時には大抵の場合、人間的に「好き」を指す。

私の好きなドラマの一つである、【カルテット】には、なかなかに興味深いセリフがいくつも登場する。そのドラマが放送されていた当時、私は中学3年生で、そのセリフの大半を本当の意味で咀嚼し、理解することはできていなかったように思う。最近になってそのドラマを見返したとき、それらのセリフをすっと理解できる自分がそこにはいた。それに気づいた時、ああ、私も多少は歳をとったんだな、などとしみじみ思ったりした。

その中で、チェロ奏者のすずめちゃんが言うセリフの中で、特に印象深いセリフがある。
「好きって勝手にこぼれるものでしょ?」と彼女は言うのだ。そしてまた、彼女はこうも言う。「そういう、好きってことを忘れるくらいの、好き。」

以前の私は、異性に対してこう、ドキドキするような感情が恋だと思っていた。それは実質間違いではない。けれど、今の私が求めている恋愛における「好き」とは、まさにすずめちゃんの言う、「勝手にこぼれてきて」「好きってことを忘れるくらい、自然な好き」なのである。

これをもう少し噛み砕いて言うと、最初から恋愛感情、及びそこに少しだけ傾いている好意はない状態で、あくまでも友達として、良好な人間関係を築き、時間を経てお互いを知ることで、少しずつ恋愛感情が混ざってくる、というものである。

友達以上、恋人未満。
男女の友情は成立するのか。
答えは、ある一定の条件さえ満たせば成立する、と私は思っている。
しかしそんなことはほぼ90%の確率で不可能だと、私自身の経験から言える。

どちらかの「人間としての好き」という前提の中に、少しでも恋愛感情が混ざってしまうと、その友情は途端に崩壊し始める。そしてそれは少なくとも、私の22年の人生の中で得た教訓として、交わる時間が長くなればなるほどその友情は崩壊の一途を辿るしかないのだと。

私は過去に一度、友人から恋人関係への移行に失敗した。その結果、この世界から友情が一つ、消えてしまった。いずれ離れてしまうご縁だったのだろうけど。
今まで友達として接してきた人間と、いざ恋人の関係になった時にお互いがぎこちなくなって、私はそれに耐えられなかった。今思えば、私が未熟だった。ただ、その人と向き合うことから逃げただけだったということが、今なら理解できる。

そして22歳の今、私はまた同じ過ちを繰り返そうとしている。
このご縁は、もし手放してしまえば私の今後の人生において重大な損失を招くであろう事もわかっている。

それでも。
彼という人間に興味を持って、彼という人柄が好きになって。
それこそ、好きだってことを忘れてしまうくらい、彼は私の中にすっと入ってきて、最初からそこにいるような、それくらいナチュラルな好きだった。
「人として好き」のその中に、どういうわけか神様のいたずらで、「恋愛感情としての好き」がちょっぴり混ざっていることに気付いてしまったら、もう。
どこから湧いて出てきたのと言いたいくらい、好きが勝手に溢れてきて、彼と共有する時間の全てが何だか愛おしく感じてしまう。
スマホの小さなスクリーンに映し出された楽譜を二人で覗き込んで、『ここ、どんなフィンガリングで弾いた?』『こうやって弾いた』『お、偉い』なんて会話までしたことも鮮明に思い出せるくらいには。

彼に初めて会った時、漠然と「あ、この人たぶん私と同じサイド(種類)の人間だ」と直感的に感じたことは一生消えないし、運命の人の定義からは若干ズレている気がするのも、何をもってそう感じたのか、そもそも自分と同じサイド(種類)とは何かについて説明しろと言われてもできないけど。彼とは少なくとも一過性の人間関係では終わらないだろうと感じたその時の自分の直感力を私は信じたい。

だからこそ、私は今日も彼の彼女の惚気話を黙って聞き続けてしまうのだ。


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