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初心の記録 #1 ― おばあちゃんと戦争と新聞

おばあちゃんと戦争

小学生低学年のころ学校が終わると、隣に住むおばあちゃんが私と弟の面倒を見るために、家に来てくれていた。

おばあちゃんは私たちの姉弟の面倒を見ながら、おばあちゃんが小さかったころの話をよくしてくれた。おばあちゃんは田舎の地域でも海辺の地方の出身で、海辺や野山でどんな遊びをしたか、両親や兄弟とどんな生活を送っていたのかについて、いろいろ話を聞かせてくれた。

第二次世界大戦の話をしてくれることもあった。

おばあちゃんは、終戦当時7歳だった。

B29が青空に現れるとけたたましいサイレンが鳴り響き、必死で防空壕に駆け込んだこと。家の近くに爆弾が落ち地面に大きな穴が開いたこと。移動中の日本兵が何人かおばあちゃんの家を訪れ、家の風呂を貸してあげたこと。

おばあちゃんの父親は、視力が弱かったのが幸か不幸か、赤紙による召集は免れたこと。終戦直後は食べるものがなく、食べられるものは何でも、芋や草や木の実、虫も食べたこと。

放課後の姉弟の腹を満たす軽食を作るためにコンロでお湯を沸かしながら、ヒトラーがどのような最期を遂げたのかについての話を聞かせてくれたりもした。

終戦前後の話をするたびにうつむき「戦争をしたって良いことは1つもない」と口にしていた。

終戦当時は校舎がなく青空教室が開かれていたという話も、小学校6年生のときに歴史の資料集の写真で見るよりも先に、おばあちゃんから教えてもらった。

当時は教科書もなく、あっても黒塗りのものだ。国語の時間は代わりに新聞を読んで漢字を覚えた、とおばあちゃんは話した。児童は順番に立って、新聞を音読したのだという。

「だから、めぐちゃんも新聞を読んでみなさい」

私は、声が高くて笑顔が可愛くて、いつでも優しく面倒を見てくれるおばあちゃんのことが好きだった。戦争の話をするときだけは、笑顔が消えてしまうけれど。食卓にあった新聞を、自然と一緒に読むようになった。

それが、小学2年生の私に訪れた、新聞というメディアと出会うきっかけだった。

「新聞と出会った」とはいっても、8歳の私は、”子どもあるある”みたいな欄か、小学生が自分の将来の夢について語る欄しか読めなかった。でもそのおかげで、今でも新聞を読む習慣がついた。

小学校5~6年生になると、「戦争」について自分の頭で学ぶ機会が増えた。私の通っていた小学校は、平和学習に力をいれていた。理由は思い出せないが、当時の先生方の方針だったのだろう。

東京大空襲を経験された方が講演をしてくださる機会や、学習発表会ではクラスの各班で「戦争」について調べ、発表する機会が与えられていた。

学習発表会のために、私たちの班は、第二次世界大戦末期の学童の集団疎開や食料不足について調べ、B紙にまとめた。当日は、班のみんなで順番に発表をした。

共働きの両親の代わりに、学習発表会にはおばあちゃんが来てくれた。

若い保護者に交じり、1番前にちょこんと座って私たちの発表を聞くおばあちゃんは、小さく泣いていた。

それが忘れられなかった。

戦争は二度と起こしてはいけないものだと思った。


10歳のときに考えたこと

学習発表会があってから、毎年8月には、今年は終戦から何年たった年なのか数えるようになった。ご高齢の方の年齢を見ると、終戦からの年数を引き算するのが癖になった。終戦当時の年齢から、この方は出兵したのだろうか、この方の両親や夫は無事だったのだろうかなど、私の知らないその方の人生を想像することもあった。

今はもう、少なくなってしまったように感じるけれど、終戦から60年をすぎた当時も、8月15日になると、新聞もテレビもラジオも終戦についての記事や番組の特集を組んでいた。8月6日には広島、8月9日には長崎の原爆投下について、その他開戦や大空襲にまつわる重要な日付にも、同じように当時のことや現代に残る課題が取り上げられ、報じられていた。第二次世界大戦の映像や体験談に触れることは、子どもながらに絶対怖いことだと分かっていたけど、チェックしていた。

小学校高学年になると、「戦争」に関わらず、新聞を読みテレビのニュースを見ることは、歴史を知り、現代社会に存在する問題を知ることになった。

私が小学5年生だった2008年は、小中学校での”いじめ”が社会問題になった年だった。

小学5年生のときの私のクラスにもよくからかわれたり、嫌がらせをされている子がいた。その子と私は、同じクラスになる前から友達で、よく家に遊びに行ったり公園に行ったり、ゲームをしたりしていた。一緒にリズム天国もした。

その子が仲間外れにされていたとき、私は見て見ぬふりができなくて、「おいでよ」って声をかけたけど、仲間外れをする子に「なんでそんなことするの?」って言うこともできなかった。私はその子へのいじめを止めるために、何か行動することはできなかった。

当時読んでいた新聞では、”いじめ”問題に関する連載が組まれていた。私は毎日その連載を読んだ。実例をもとに全国的な”いじめ”のケースを取り上げ、そのケースの特徴やなぜ発生するのかについて考察されていた。そこには私が知ってる”いじめ”に近いものがあったし、それ以上に悪質で陰湿なものもあった。亡くなってしまった子やその遺族の話も読んだ。悲しかった。

他にも2007年~2008年には、小学生の私でも「ヤバさ」が理解できる事件、不祥事が連続して発生していたことを覚えている。

和菓子商品の賞味期限および原材料表示の偽造や、中国産の冷凍餃子に毒物が混入されていた事件、高級料亭で食べ残した食事を使いまわしていた事案など。今思い返すと全て食品に関することだったけど。

食品に直接は関係しないことだったら、高級料亭関係者の記者会見で、自分自身で事情を説明できない大人の姿を見たことも、小学生の私にとっては驚きだった。

そして当時の麻生太郎首相が「未曾有」を読み間違えたことにだって、なぜか衝撃を受けた。(当時の私は真剣に衝撃を受けたのだが、去年就活の面接で話したらウケてしまった)

事件や不祥事に衝撃を受けた理由はきっとこれだ。小学生の私にとって ”大人” は、「正しいこと」と「間違っていること」をちゃんと知っていて、それを”子ども”に教えてくれる存在だと思っていたからだ。

そんな ”大人” が、お菓子の賞味期限ごまかすなんて。餃子に毒いれるなんて。料理使いまわすなんて。一国の首相が、漢字読み間違えるなんて。

いずれは自分たちが困ることになるだけでなく、なにより自分たちの行為によって苦しむ人がいるということは、少し考えれば分かるだろう。漢字の読み方だけは、そのとき知らなかった可能性が高いけど。

なんでそんな過ちを犯したんだろう。”いじめ”はなんで無くならない?戦争はどうしても止められなかった?

どうすれば、誰も悲しまなくなるんだろう。

その答えを考えるのは、”大人”とか”子ども”とか全く関係ないのかもしれないと気づいた。

歴史の過ちとこれからの社会について、自分の頭で考えるきっかけをくれたのは、間違いなく、戦争を経験したおばあちゃんと、メディアだった。






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