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ウユニのジレンマ

僕がボリビアのウユニ塩湖を訪れたのは乾季の9月だった。ウユニに連想される空中の鏡張り風景は雨が多く降り注ぐ雨季の景色だから、せっかくならベストシーズンに訪れたかった。しかし、そのベストシーズンというのはどうやら日本人を始めとする東アジアからの旅人にとってのもので、世界基準だと乾季の方が旅行客が増えウユニの街が賑やかになる。

美的の価値観が国や文化によって異なることは旅を通じて徐々に学んでいる最中であったが、ウユニの鏡張りは世界共通の絶景だと思い込んでいた僕は面を喰らった。日本人が鏡張りを好むのは「物事」を直接捉えることなく間接的な物を美徳とする「わび・さび」が映し込んだ日本人の心だろうか。もしそうだと何だか嬉しい。

1回目に参加したツアーはデイツアー。即ち昼から夕方までウユニ塩湖に滞在するツアーだ。街からランドクルーザーに乗り、30分ほどかけてウユニ塩湖へ向かう。運転手は慣れた手つきでシフトレバーを操っている車を走らせる。あぁ、僕も運転してみたいなとそう思った。周りの建物が徐々に少なくなり、人がいなくなり、舗装道から離れた。

草原の中をランドクルーザーはまるでここが自分のホームグラウンドであるかのように生き生きと力強く駆け抜ける。ナビは搭載されていないから、目印になるのは長年蓄積されたであろうのタイヤ跡だけだ。

同じ景色が延々と流れ、そろそろ退屈した頃、辺りの地面がうっすら白っぽくなっていることに気がついた。塩だ。まるで雪が降った後のような儚さもあり、対照的にもう少しで着くことを悟った興奮が入り混じる。

そしてさらに進むと、一面雪化粧ならぬ塩化粧をしたボリビアの悠々とした大地が広がっていた。

「ウユニだ。」

街から乗ってきたバンを降りて、生まれて初めて土でもなく、木でもなく、コンクリートでもなく、見た目は似ているけど雪でもない場所に足を着けた時、違う星にでもきてしまったような気持ちになった。足元の塩に目を向けても文字通りの真っ白な塩もあれば、少し青みがかったような色のものや、ピンク色まで様々だ。その昔、海底にあったこの場所が地殻変動によって顕になった塩の大地を今自分の目で見ていることがどれだけ尊いのかを感じる。

ウユニ塩湖を一言で言えば、不自然な自然だった。理解しようとしても目の前に情報量に僕の脳が追けずに、代わりに口から出る言葉は、すげぇとかやばいとか、それhそれは単調な言葉ばかりになってしまう。標高4,000メートル弱の標高に長野県ほどの大きさで跨り、最大高低差塩が30cmなんていう場所だから、地球が丸いってやっぱり嘘なんじゃないかと思ってしまう。それくらい不可解だった。

寝っ転がってみると、視界には人工物が何一入らなくて、目に写るのは真っ青な空の青色だけ。心なしか空気は少し塩辛い。空の青色と塩の白色とのコントラストはとても相性が良いなと思う。僕が応援する中日ドラゴンズもそういえば青色と白色がチームカラーだ。

日が傾けば、塩湖の結晶が浮き出るように美しく見え、誰が意図せずとも作られたこの自然が織りなす芸術品に思わず陶酔してしまう。

なぜこの美しい場所が世界遺産にならないのだろうかととても疑問に思った。これほどの絶景ともなれば国立公園化をしてウユニを守る事だって可能なはずだ。

事情に詳しいはずの運転手にその理由を尋ねると、彼は「リチウム」答えて、この塩湖の底に世界の採取可能量の20%を占めるリチウム電気が埋まっていることを教えてくれた。

まだ効率良く採取する方法が見出されておらず開発研究の段階らしいが、つまりウユニ塩湖が世界遺産に登録されると法的に開発が制限されてしまうことから、あえて政府はウユニ塩湖を世界遺産に登録をせずに金なる木に実を成らせようとしているのだろう。

僕はまず率直に悲しいと思った。尊い自然が富のために破壊されようとしているからだ。だが、その富がボリビアを豊かにするという結果を考えると、簡単には否定をすることはできない。南米一貧しい国の一つを救うこともできるかもしれない。

現代化を嘆いてしまう自分に嫌悪感を感じるのだが、やはり旅人のエゴが求めている昔ながらの歴史や飾らないありのままの姿だ。自分が見たことも触れたこともないものに人々は憧れるから旅が成り立つのに、現代化によって「普遍的」な価値観が氾濫して、世界中の街々が似たような街並みになってしまうことが怖い。もしそうなったら僕たちは今後どこにいけばいいのだろうかと途方に暮れてしまう。サステナビリティって想像以上に難問だ。

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