【第三回】幕府滅亡と建武新政「新田義貞」 [歴史発想源/武心の大道・建武争乱篇]
現在『ビジネス発想源 Special』の「歴史発想源」では、室町幕府初期を舞台とする「信義の経国・室町幕政篇」を連載中です。
そこで、この「トップリーダーズ」では、その前日譚となる「武心の大道・建武争乱篇 〜新田義貞の章〜」の前半部分を期間限定で掲載いたします。
「室町幕政篇」を理解する上で、「建武争乱篇」を一緒に読めば、複雑に入り組んだ南北朝時代がより分かりやすくなるでしょう。
後醍醐天皇に呼応して鎌倉幕府を攻め落とし、建武の新政から離反し室町幕府を作る足利尊氏と激闘を繰り広げた、新田義貞が主人公の「建武争乱篇」。
現代の会社経営やマーケティング戦略のヒントが一つでも見つかると嬉しいです。それでは「建武争乱篇」、第3回をどうぞ!
【第三回】幕府滅亡と建武新政「新田義貞」
■150年の歴史が、一瞬にして滅びる
上野国新田荘での挙兵時にはたった150騎だった新田義貞の反乱軍は、やがて関東の武士を集めて60万騎に膨れ上がり、幕府最後の砦、天嶮の鎌倉へと攻め込みます。
新田義貞は、化粧坂の攻撃を実弟の脇屋義助に任せて、自分は別働隊を率いて、相模湾の海岸へと出ました。
海岸沿いから鎌倉へと入ろうとしても、稲村ヶ崎(いなむらがさき)と呼ばれる、切り立った岩壁が海岸にせせり出ており、大軍でここを通過するのは無理でした。
今は、国道134号線が開通しているためその崖は中央が切り崩されていますが、当時は崖を越えるのは非常に困難だったのです。
新田義貞が到着する前にも、反乱軍の一隊がこの稲村ヶ崎からの海岸ルートを突破しようと船を持ち出して岩壁を回ろうとしましたが、失敗に終わっていました。
さすがに鎌倉幕府軍もそれぐらいはお見通しで、海には無数の船にて警備させていたため、小勢で船を出しても簡単に阻まれてしまうのです。
「この海を通ることさえできれば、鎌倉に入れるんだが…」
それでも、新田義貞は何か突破口はないかと海に出てきて、何とかして鎌倉へと攻め込む手立てを考えます。
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