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「いいね欄を覗かせてください」に思うこと

自分の好きな曲だけを集めたプレイリストを見られるのは、自分を丸裸にされるのと同じくらい恥ずかしかった。「こんな音楽聞いてるんだ」という、いいようにも悪いようにもとれる言葉に怯えたし、イヤホン2つだけで聞く自分の世界に誰かの侵入を許してしまうことのように思えた。

好きな音楽はいつも、私の中だけで鳴っていた。イヤホンで閉じられた耳の鼓膜を揺らしていた。


今も、プレイリストを見られることの恥ずかしさは変わっていないけれど、もうひとつ見られたくない、見られたら恥ずかしい好きの塊がある。


それはSNSのいいね欄だ。

ちょっと前に、SNSのいいね欄を採用方法に取り入れている会社を見かけて、「そんなの身悶える……!」と思ってしまった。サイトには「あなたの好きなものから、あなたを教えてください」という決め文句があって、「SNSのいいね欄を覗かせてもらいます」と書かれていた。


プレイリストも、検索履歴も、SNSのいいねも、基本的には誰かに見られることを前提としていない(Twitterのいいね欄は誰でも見られるけど)。自分の、自分の中だけの好きを集めたそれらは、いわゆる”性癖”に近いものだと私は思う。たった一人、私だけが知っている私の心の奥底。

何気なしの「いいね」、共感の「いいね」、もう1回見たいからする「いいね」、友達の投稿だからした「いいね」、もう無理、好き、推す、と思ってした「いいね」。今の気持ちと近いからした「いいね」。

そういう、ほんとうはいろんなグラデーションと気持ちがあるはずの「いいね」が一緒くたにされた箱の中は、自分よりも自分が色濃く出ているだろう。もはや色が濃すぎて濁っている、と私は思う。

だから恥ずかしい。

自分の中で育てた”汚れ”みたいなものを見られる感覚に近くて、考えただけで布団の中でモダモダモダしてしまう。整えられたいいね欄なんて、この世にはきっと存在していない。

だから、見る側も覚悟をもって見てほしいなあなんて自分勝手に思う。

そこに集められた性癖や、汚れをちゃんと受け入れて欲しい。私はしょうもないツイートにいいねしてるし、かと思えばちょっと真面目な呟きにもいいねをする。ポエティックな恋愛ツイートにだって共感しちゃうときもある。

ああ、ここに言葉として並べ立てただけでも恥ずかしい……。

”終わりよければすべてよし” になれましたか?もし、そうだったら嬉しいなあ。あなたの1日を彩れたサポートは、私の1日を鮮やかにできるよう、大好きな本に使わせていただければと思います。