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意趣返し

ボスニアにおけるサライェヴォ事件に端を発した第一次世界大戦は、パリ北東のコンピエーニュの森でドイツが休戦協定に調印したことで終わりを告げた。

〔コンピエーニュの森に停車した列車、調印の舞台となった〕

〔連合軍とドイツとの休戦協定締結の場〕

ドイツは国内の反乱により、戦争継続が難しくなった。

故に、1918年11月11日に休戦協定の調印に踏み切ったのだ。

しかし、これはドイツ国民にとって屈辱の日々の始まりであった。

戦後、パリ講和会議(1919年)で締結されたヴェルサイユ条約において、連合軍はドイツを徹底的に弱体化させた。

まずは領土の割譲。
これによりドイツは戦前の面積・人口の10%を失い、一切の海外領土を喪失した。

更には軍備の制限。
陸軍は兵力を10万までに、海軍は兵員1万5000まで、空軍は一切禁止。

そして、賠償。
当初は200億金マルク、後に1320億金マルクと正式に決定した(1320億金マルク:現在の日本円にして約200兆円)。

ドイツ国民はこの内容に憤慨した。
第一次世界大戦の非が、まるでドイツのみにあるかのような内容に。

ドイツが雪辱を果たすのは、ヴェルサイユ条約調印から21年後。

1940年、第二次世界大戦においてパリを占領した時のこと。

ナチス・ドイツを率いるヒトラーはある物を用意させた。

列車である。
ドイツが第一次世界大戦の休戦協定を調印した舞台となった列車。

〔博物館から引き出される列車〕

博物館で眠っていたその列車を引っ張り出し、再びコンピエーニュの森に置いた。

1918年、第一次世界大戦に敗れたドイツが屈辱的な条約を結ぶはめになった始まりの場所。

その場所で今度はフランスに休戦協定を調印させた。

ドイツ国民、そしてヒトラーの意趣返しである。

この日から、フランス国民は1944年にパリが解放されるまで、自国をドイツに占領されるという屈辱の日々を味わった。

戦争は憎しみを生み、連鎖し、やがて返ってくるものらしい。

上記はそれを教えてくれる教訓であり、また忘れてはならない教訓だ。

(終わり)

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