【都市計画家列伝】第1回 イルデフォンソ・セルダは現代バルセロナに何をもたらしたか ②理論編
都市計画家列伝の第1回としてバルセロナの都市拡張事業を担ったイルデフォンソ・セルダを取りあげている。第1部ではセルダの生きた時代とバルセロナ、セルダの生い立ち、そして都市拡張事業をめぐる政治的思惑について解説した。そして第2部ではセルダの都市計画思想と、彼の思いがどの程度実現されたかに迫っていく。
3. セルダの都市計画思想
a) 科学としての都市計画の黎明
バルセロナ都市生態学庁やカタルーニャ先進交通センターで働いた経験を持つ吉村有司氏は、イルデフォンソ・セルダをUrban Science(=科学としての都市計画)の手法を初めて編み出した人物として位置づけている。そして「近代都市計画の父となるはずだったセルダが、ヨーロッパの辺境に生まれたがゆえに歴史から忘却されていた」こと、また英仏独で「近代国家のインフラを整備していく中で、サイエンスの部分がそぎ落とされ、技術の部分のみがフォーカスされていった」ことにより、科学としての都市計画が忘れられたのではないかと主張する[4]。
都市を科学的に分析することは、セルダの都市計画思想を特徴づける「合理主義的アプローチ」と「平等な社会の実現」の双方に通底するものであり、セルダの最も根源的な態度である。そしてその態度を端的に表しているのが「ウルバニサシオン」という言葉である。ウルバニサシオンは「都市化」「都市的なもの」「都市計画」などを意味する言葉であり、都市を科学的に分析する中でセルダが独自に作り出した。フランス語の「ユルバニズム」の源流ともいえる。阿部はそれまでの著作では名詞的な「都市」のみ用いていたのが、形容詞的な「都市的なもの」へと変化したことが、セルダが都市という概念を抽象化していくプロセスを示していると指摘する。
1868年に発表された『1856年のバルセロナの労働者階級に関する統計書』は、セルダの都市拡張計画のベースとなった調査内容について記している。セルダは旧市街の住宅を一軒一軒回って詳細なデータを集めていき、労働者階級の平均寿命が中産階級の半分しかないこと(1章を参照)、高い死亡率の原因が日照の欠如にあること、労働者階級が裕福層に比べて平米当たり30%多く賃料を支払っていることなどを示し、その知見を合理的かつ平等主義的なバルセロナの都市拡張計画に活かしていった。例えば、正方形の街区の対角線を南北方向に向けることで、どの家でも一定の日照を確保できるようにした。また、セルダの都市計画理論の総決算と言える大著『都市化の一般理論』の第Ⅱ部はすべて大量の調査データの分析で占められており、彼の都市計画理論がデータ分析に基づいていることが分かる。
b) 合理主義的な土木技師
バルセロナの新市街を特徴づけるのは正方形の街区を単位としたグリッド構造である。これはセルダの合理主義的アプローチと交通の重視によるものであり、マドリードで土木技師としての教育を受けたバックグラウンドが強く影響している。彼は都市の構成要素を「街路」とそれに囲まれた「街区」として定義しており、建物よりも道路(交通)を都市づくりの中心に据えていたことがうかがえる。また、市内に蒸気機関の鉄道を通すことを考えていたためすべての街路を幅20m以上とし、街区の隅切りによって交差点に十分な面積を確保したことにも、交通を重視する姿勢が表れている。そして、どうしても中心部で渋滞が発生してしまう放射状の街路構造に比べて、ある道路が他の道路と絶えず連続しているグリッド構造はより効率的で合理的だと考え、旧市街との関係性を完全に無視して無限にグリッドを広げていくシステムを採用した。
c) 平等を求める社会思想家
セルダにとって合理性の追求としてのグリッドシステムは、同時に労働者階級にとって平等で公正な居住環境を実現するための試みでもあった。2章で触れたように、セルダはマドリード時代から自由主義進歩派の政治運動に加わっており、バルセロナで都市化の調査を始めてからはより労働者階級の厳しい生活環境に関心を向けるようになった。彼にとって都市計画は平等な社会を実現するための手段であり、その実現のために科学的なアプローチを探求したとさえ思える。
上の言葉はセルダがグリッド構造を平等性の観点からも評価していることを示すものである。彼はゾーニングによって都市空間の階層化が分離することを嫌い、ゾーニングをせずに街区の中で様々な都市機能と階層が共存することを目指した。加えて、労働者の良好な居住環境を確保するために、約半世紀後にエベネザー・ハワードが提案する田園都市を都市のど真ん中で実現させるかのようなプランを提案した。現在のバルセロナ新市街からは信じられないが、提案時には16mの高さ制限を設定し、街区の2辺のみを建築可能とし、街区内の60%以上をオープンスペースとして確保する予定だった。そして市内のどこにいても1.5km以内に緑地があるよう、新市街の数か所に広大な緑地を計画した。
セルダの異質さは同時代のオースマンとの比較からも分かる。ナポレオン三世の治世下でオースマンが行ったパリ大改造の目的は、治安の改善・壮麗な都市空間づくりによる権威の発揚・都市空間の階層化にあった。バリケードを築けない都市を目指したオースマンに対し、セルダは労働者階級が暮らす旧市街の狭い路地を維持したことで、バルセロナではその後も市街地での政治運動が発生した。そしてオースマンが都市空間の階層化を目指したのに対し、セルダは(結局は実現しなかったものの)平等な都市空間でのソーシャルミックスを目指した。いわばセルダは1世代前のロバート・オーウェン、フーリエ、サン・シモンらによるユートピア社会主義の実験を大都市スケールでやってのけた稀代の社会思想家である。
d) 計画の総合性と柔軟性
都市計画家としてのセルダのもう1つの特徴は、法制度や経済的手段の提案を含めた計画の総合性である。都市計画という概念さえ存在しない時代に、当然ながら必要なすべての法律や制度を自分の手で創り出す必要があったセルダは、1859-60年にかけて都市拡張計画の実現を支えるための『警察権条例』『建設条例』『経済考察』を発表している。また都市整備の実現手段として、当初は受益者負担を原則とした土地区画整理事業のような仕組みを提案していた。ただ実際にはうまくいかず、代わりに新市街の基盤整備を担当する事業会社が証券で資本を集めて土地を購入し、都市基盤を整備したのちに土地を売却して収益を得る仕組みを作った。同時代のパリ大改造が国家事業としてすべて債権と税金によってなされたことを踏まえると、公的な財源に頼らずに市街地整備を進めようとしたセルダの姿勢はやはり異質と言える。
また、セルダは絶対的な原則や理論は硬直的で結局実現することができないと考え、実践からのフィードバックを通じて理論を柔軟に変更し、その実現可能性を高めようとした。先に挙げた都市基盤整備の手法もその1例である。また、当初は1街区内で2辺のみ建築可能としていたものを、地権者の反対によって規制を緩め、16もの建築可能パターンを考案したことも、実現可能性を重視するセルダの態度を示している。多くの都市計画家のプランがその革新性を称賛されつつも実現しない一方で、理論の完璧な実現にこだわらず、理論を実現させる手段を総合的に考案し、実践しながら修正していったことが、都市計画家としてのセルダが傑出している点の1つである。
e) 原風景を求める
この言葉はセルダの都市計画理論の集大成である『都市化の一般理論Ⅰ』の表紙に記されており、セルダにとってとても意味を持つ言葉だったはずだ。解釈が難しいが、山道ら(2009)によれば、セルダは当初『都市化の一般理論』と対をなす『田舎化の一般理論』を執筆する予定で、『都市化の一般理論』はそれによって完成された作品となる予定だったと言われている。また阿部(2010)は「都市的なもの」=建築、「田舎的なもの」=庭園(街区内のオープンスペース)として、建物と庭園によって1つの街区を構成する田園都市的なプラン(3cを参照)を表現したものとして解釈している。私自身は、「都市的なものを田舎化し」とはセルダが都市拡張と同じくらい重要な課題と認識し、マドリードで研究を重ねてきた旧市街の環境改善を指すのではないかと思う。
そして山道ら(2009)は、3cで述べた田園都市の先駆けともいえる計画を、カタルーニャの田舎で生まれ育ったセルダが、故郷の美しい景観を思い浮かべながらそれに近い景観を作りたかったのではないかと推察している。この言葉の解釈は分かれるが、ひとまずセルダはまだ見ぬバルセロナ新市街に彼自身の原風景を思い描いていたのではないかと考えてみると、この言葉を主著の表紙に記した気持ちが分かる気がする。
合理主義者であり社会思想家でもあったセルダは、効率性と平等性を求めてグリッド構造の市街地を生み出し、科学的なアプローチにより理想的な住環境を構想した。またその実現のために総合的な法制度・経済的手段を編み出し、実践を通じて柔軟に改善していった。セルダは新しいバルセロナに彼自身の原風景を重ねていたのかもしれない。
4. セルダとバルセロナのその後
再び山道ら(2009)をもとにセルダとバルセロナのその後について簡単に記す。セルダは国の技術顧問、市議会議員、拡張振興事業会社などの立場から拡張計画に関わり続けたが、最後には政治家として1873年の共和制の樹立に希望を見出した。晩年まで労働者や弱い立場に置かれた人々と共に理想のために戦い続けたその姿勢からは、彼の高潔さと社会への愛情を感じる。しかしその共和制が1年で崩壊した後は、都市拡張計画も政治活動からも退き、理解者を得られないまま最後はマドリードで亡くなった。ジュゼップ・プッチ・イ・カダファルクらカタルーニャの建築家やメディアはセルダの合理主義的な仕事を批判し、アンチテーゼを示すかのようにカタルーニャの歴史を強調する記念碑的建築が増えていった。こうして近代都市計画の父となるはずだったセルダは、カタルーニャの人々からさえも忘れ去られ、再び脚光を浴びるのには100年以上の時を待たねばならなかった。
セルダの生み出したバルセロナ新市街も、彼自身の人生と同様に思う通りには進まなかった。当初の計画の理念よりも地権者であるブルジョワジーたちの意向が優先されるようになり、セルダの夢見た景観はほとんど実現しなかったと言ってよい。その中でも彼にとって最大の痛恨は、都市空間の階層化が進んでしまったことだろう。当初は新市街の開発が進まず、人通りが多かった周辺市町村とバルセロナを結ぶ旧街道のパセジ・ダ・グラシアに資本が集中していき、地価が跳ね上がった。現在カサ・ミラやカサ・バトリョが建っていることからも、道沿いにブルジョワジーたちが競って豪華な邸宅を建てたことがうかがえる。土地への投機ブームが何度か発生し、拡張地区は贅を尽くした豪邸と家賃収入のための賃貸用マンションが並んだ。ただ、新市街に住めた労働者は恵まれた人だけで、基本は過密した旧市街に住み続けるか周辺市町村との間に開発された郊外に住んだ。そして旧市街にさえ住めない最底辺の人々は旧要塞の丘陵地帯にバラック群を形成して住みついた。一方で周辺市町村の中でも避暑地的な扱いだったサン・ジャルバジ地区などでは、路面電車の高い運賃を払って市内に通勤することが一種のステータスとなり、ブルジョワジーたちが多く住んだ。
居住環境という意味でもセルダの構想は骨抜きになった。厳しい建築規制により拡張地区の整備が思うように進まない(事業会社が都市基盤整備を行う体制のため、投資が集まらないと整備が進まない)中で、地権者たちは建築基準の緩和を求めるようになった。建蔽率は当初の3-40%から75%程度にまで上がり、高さ制限も引き上げられ、当初の計画では街区の2辺のみ建築する予定が4辺すべてに建物が建つようになり、挙句の果てには中央のオープンスペースにも建築が許可された。市内全てのエリアから1.5km以内に計画されていた緑地もすべて無視され市街化された。20世紀初頭には新たに併合された周辺市町村との間の市街地を計画するコンペが行われ、当然グリッドシステムの拡張ではなく、カタルーニャの伝統的景観を生かしたプランが採用された。
第3部では、「科学としての都市計画」「都市の理想」という視点から、セルダが現代バルセロナ、そして現代都市計画にもたらしたものを考察する。
第1部はこちらから。
[4] 吉村(2020)「最終回:都市の科学と技術 Urban Sciencesの可能性」新建築.ONLINE. <https://shinkenchiku.online/column/872/>
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