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何を目指してるのか分からなくなったから原点回帰したい

noteを通して何かを発信するのは楽しいし、それに反応してくれる人がいると嬉しい。

しかしその本人はただの一般人であり、発信される情報はよくある自己啓発書の受け売りやあくまで自己をベースに語られていることもしばしば見受けられる。

ミニマリズムが全ての人に合っているわけではなく、食事に関しても体の健康を重要視する人や食事をエンターテイメントとして考えている人など様々でありどれも正しい。

発信するのは自由だしそれをどのように受け取るのかも自由だが、まるでこれが正しいと言われているような文章には魅力を感じない。

自戒の意味を込めてではある。

私の場合、ミニマリズムや食事制限など最近色々試してきた。

以前からミニマリズム思考ではあったため特別改善したことはないのだが、ミニマリズムに感化された人の情報に触れすぎたことでモノを買う、増やすことを過剰に躊躇してしまうようになった。

服も小物もインテリアも最小限にして身軽に過ごそうと唱える人が多い。

それがもたらすメリットが多いのも理解している。

しかし私はファッションが好きであり、好きな空間をデザインするためにインテリアにもこだわっていたい。

好きだから。

私は毎日眼鏡をかけるタイプなのだが、その日の気分や服装などで違う眼鏡を選択したい。洋服をコーディネートする時間も苦ではないしそれにかける時間を人生の中で無駄だと感じていない。

まるで自分はミニマリストでありミニマリズムを自分で選択しているかのように錯覚していた。

要するに他人が発信している情報をそのまま実践しても、それは前提としてその人がベースになっているのだから誰にでも適しているわけではないということ。

それとこうした変化を生活の中に取り入れた最初の段階は、それによる良い変化も大きく感じられるのでさらにその思考や方法にのめり込んでいく。

この変化には段々と慣れていき、徐々に飽きていく。

そしてそれがリバウンドする危険性も孕んでいる。

私は体調を崩した。

それは過剰な食事制限を行なっていたことやそれに伴うストレス、生活習慣など全てが相まり食べたいものを食べたいという欲望が暴発し食べ過ぎによる過食嘔吐だった。

これが自分にとっての幸せか?

そう考えることが多くなった。

自分がこの先どうなりたいか、どんな人になりたいか。

未来の姿を思い浮かべるのは目の前の選択を手助けしてくれる。

他人に影響された自分は未来でも他人をベースにした人間であるだろう。

何を大切にするのか、何が好きなのか、何が心地よいのか全てが定まっておらず、個性や独自性もなく凡人。

凡人が悪いのではなく私はそんな未来人にはなりたくないということ。

それと好きなことややりたいことを突き詰めていくとその先にはその人にしか得られない価値観やセンス、思考など多くの副産物があると考えている。

ミニマリズムという思考はモノを大切に扱うため、サステナブルな社会を目指すのに必要であるし有効であると感じている。

しかしそれによって自分が自分らしくあるための要素まで削ぎ落としてしまうとその先に本当に自分が求めていたものは存在していないのではないかと思う。

これからも情報を発信することをやめることはないと思うが、その内容は誰かの受け売りではなく自分の価値観や考え方を反映した情報を届けたいと思う。

影響力のない自分が発信する情報など、読者からすれば「お前は何者だ!どこ目線でもの言ってるんだ!」と感じているに違いないからである。

どこでも手に入る情報など誰も求めていない。

それよりも実際に体感したリアルな情報を届けたい。

それも自分が好きなことを。好きなだけ。好きな時に。

最後に私が最近決めたことがあるので少しだけ。

それは我慢しないこと。

自分の心が本当に望んでいることを選択する。

雨が降っている時に無理に出かけない。

ジャンクフードも食べたいなら食べる。

本当に欲しい服があるなら手に入れる。

デリバリーを利用して時間をお金で買う。

気分が上がらないなら意識的に力を抜いて仕事するとか。

何事も無理せず完璧も求めず長く続けることが大切。

これも本当はわかっていたはずなのについつい完璧を追い求めてしまっていた。

この今の感情もまたこの先変わっていくのだろう。

それは当たり前で悪いことではない。

その時の理想の自分も変化しているのだから当たり前である。

変わらないのは

自分で考え自分で決める。

これが難しいんだよね。。



ーENDー

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