John doe

身元不明の元人間。

John doe

身元不明の元人間。

最近の記事

鬱エッセイに手を出す。

鬱エッセイに手を出した。いや出そう。出します。目を腫らして泣く成人は男女関係無くみっともないですよね。私もそう思います。 キッカケなんてのは無くって。いやあるけれどそれはキッカケと呼べる程大層なものでなくって。 なんてことない、夏と呼べる存在に感情が揺らいだまでのお話です。 ただこうして日々の流れに身を任せるだけで死を間近に感じるのが鬱病の実態。 別段辛くもないけれど、辛いと言ってしまえるのならば辛い。それが鬱。 でもまだ不幸中の幸いと言いますか。怪我の功名とでも言います

    • タイトルなんか知らんわ。でもな。

      知らん知らん、なんも知らん。勝手にやれや。 でも言いたいことは山ほどある。 まず一つ、つまらぬ嫉妬はするな。 そして二つ、強かに志を持て。 そして三つ、弱さを忘れるな。 四つ、誰かの存在を胸に留めろ。 五つ、感謝の意を。 六つ、楽しめ。 人間って大概の人がいろいろなハンディキャップ背負って生きてるんですよ。 それは些細なものばかりかもしれない。 例えば、人の思いが上手く読み取れない。文字が人並みに書けない、読めない。感情の丈が広い。あるいは狭い。 やりたい物事を一つに絞れな

      • 坩堝

        不安、恐怖、嚥下、暗礁、挫折、破滅、慟哭、吐気、怖気、散華、盲目、嫉妬、安寧、怒、鬱。 全部糞。死。殺害。蹂躙。

        • 疑問的観測。

          ふと思ったんですが、なんで皆ガチで人生しないんすかね。 大半の人って、死ぬの嫌だと思うんですけど、なかなか本気出さないんすよね。死ぬ間際まで。 私が以前、しょぼくれてるやつをその淵に立たせたことがあるんですよ。そしたらそいつは百八十度打って変わって健全となったんですよ。 その気になれば皆やれるんです。なのにやらない。 詰まる話、誰かがそいつを殺さないと、殺しかねないと、変わらないんですよ。一分一秒が大切で、決して掛け替えのないものなのに、そんな風に牛歩で歩むなんて弱過ぎる

        鬱エッセイに手を出す。

          鬱とは、またそれについてのエンタメ性。

          鬱。鬱だ。言わずと知れた鬱。鬱病の鬱に、憂鬱の鬱。移しみの如く陰鬱とした鬱。 トラウマと同様、すっかり安っぽくなり果て、最早プチプラの域にまで達しているであろう鬱だ。 その鬱についてなのだが、これはもうどうしようもく、なんの言い訳もなくハッキリと述べよう。 要は「不良品」ないし、「欠陥品」の烙印だ。 人は皆それらの端々を持って生を受けた。受けさせられた。きっとこれはただのネガティヴな捉え方で実際のところはなんの変哲もない単純な確率のお話だろう。しかし私は先の通りの考えばかり

          鬱とは、またそれについてのエンタメ性。

          友人A「我儘なやつって、キモくね?」

          文学については前置き。私は文学が好きだ。理由は、「エゴの塊」だからだ。それ故に難しい。 と、言うのも、私は好きなものを宝箱の奥底に仕舞ってしまうタイプの人間だからだ。 だからと言ってずっと陽の光に当てることなく未来永劫仕舞っておく積もりも無い。そんな風だから時折こうして筆を持ってしまう。 好きな文学。それは決して傍から見れば美しくは無く、可憐とは程遠く、惨めで、それでいて情けなく、希望とはかけ離れた、非道そのものを表した文学が好きだ。 だが全く救いの無いお話が好き、という訳

          友人A「我儘なやつって、キモくね?」

          告白シーン後のセックスを忌み嫌う。いやその実。

          告白シーン後の秒速セックスを忌み嫌う。 「告白シーン後の秒速セックスは辞めなさい。何故なら感動が薄れてしまうから」 僕はこんなことを言う男が面白いと思っていた。なんなら正味なところ。 「いや別にどうでも良くね?😂エロゲやん!! そんなに嫌ならギャルゲでもやってなー🤣」 とまで思っていた。そう思っていたのだけれど。今回プレイしたエロゲでは、また違っていた。否、曲がってしまった。 長い年月を経て育った愛と罪の念。それらを吐露した後の言葉は決まっている。しかしどうだ。それらの言

          告白シーン後のセックスを忌み嫌う。いやその実。

          芹沢あさひ、その少女が纏うものについて。

          個人的に芹沢あさひという少女の存在はとっても儚いのではないのか、と、ふと疑念を抱いた。儚さの根源についてだけれど、彼女は明確に「今」を楽しみ、心待ちにする少女だ。そうであるが故、烏合の少女という肩書きを脱ぎ捨て、偶像崇拝の対象になる、などと非凡ではない選択をいとも簡単に選んだ。その理由はきっと「今」にあるのだろうと思う。生きてきた時間を経て、自分の手中にあるものを捨てるのは惜しい。でも彼女はそれさえも厭わなかった。これから先、崇拝の対象でなくなる、もしくはその選択を迫られたと

          芹沢あさひ、その少女が纏うものについて。

          俺思うんだよ。で、言いたいのよ。

          俺いつも思ってんだけど、自分卑下するやつ、過小評価するやつ、見限ってるやつ。 うるせぇ!!だから、なんなんだ!!お前がやってることは間違いじゃないから、そうだから求めてやり続けてんだろ。 俺だってそうだよ。やってるし、重ねてるし、深めてる。そんなかで失敗もしたし、人から見りゃ赤っ恥と思われるようなこともあった。でも挫けちゃいない。今尚やってる。 何故か?そらやりたいからだろうよ。 誰だって熱意か、志か、それかプライドとか、そういう度量さえありゃ大体のことはなんだってこなせる

          俺思うんだよ。で、言いたいのよ。

          書き物をしたくない理由

          私は自分で書く文章が嫌いだ。だがここで口を開く人が居るだろう。「なのに今お前は筆を執り文を綴っているではないか」と。少し待って欲しい。ここで筆を持った理由は至極簡単。人のリクエストにお応えしたまでなのだ。だから、これから綴る文章は全て私への保身だ。 さて、早速本題なのだが、私自身が自分で書く文を嫌っている理由は単純に、才が無いからだ。 才が無い故に、文章に起こす事により真に思っていること、考えていることが綻んでしまう可能性が大きくある。だから心底自分で書く文章が嫌いなのだ。

          書き物をしたくない理由