見出し画像

友人A「我儘なやつって、キモくね?」

文学については前置き。私は文学が好きだ。理由は、「エゴの塊」だからだ。それ故に難しい。
と、言うのも、私は好きなものを宝箱の奥底に仕舞ってしまうタイプの人間だからだ。
だからと言ってずっと陽の光に当てることなく未来永劫仕舞っておく積もりも無い。そんな風だから時折こうして筆を持ってしまう。

好きな文学。それは決して傍から見れば美しくは無く、可憐とは程遠く、惨めで、それでいて情けなく、希望とはかけ離れた、非道そのものを表した文学が好きだ。
だが全く救いの無いお話が好き、という訳でもない。絶望は希望があるからこそ映えるのであり、それは人生も同じだ。死があり、生を謳歌することが出来る。逆も然りだろう。
仄暗い現実から覗く微かな幻想。分かりやすく言うなれば、「折れた人でなく、折れかけの人」が大好きだ。

だがここで誤解しないで欲しい。なにも優越感に浸り、下を見下している訳では無いのだ。自身でさえその渦中に居れば心躍るだろう。そう、今際が心地良い、のだろう。恐らくは。

私だって全て分かりきっている訳では無い。ただ、快楽、カタルシス、ジレンマ、葛藤、嘆き、その他etc。人の、欲、なるものが好物で仕方がない。
時に人々は欲を負のものとする。しかしどうだ。それらは普段から持ち合わせ、己と対峙しているそのものと他ならないだろう。食欲、性欲、睡眠欲、物欲。そんなものを気持ちが悪い?はて。一体何をして、何を聴いて、何を見てきたのやら。

私は人の欲が好き。無論私自身の欲も好き。
その中でも、芸術、と呼ばれるものはエゴの塊だろう。人の為に創れば、それはデザインとなる。
だからオナニーと揶揄されるそれらが心地良く感じる。
人の欲が飽きて尽きることは無い。だからこそ面白いんじゃないか。
交尾したい?どうぞ。食べたい?豪遊したい?どうぞ。寝たい?どうぞどうぞ。
欲は時として人を人間そのものにする。文学はその欲を顕著に表したものの様に見える。
人が醜いと揶揄するそれらは自分そのものだから。劣等感、悲愴、嫉妬、慈愛、怒り、憎しみ、結構結構。本当は同じなのに彼らとは同じ位置に立っていると思い込みたくない。そんな奴もまた惨めで好きだ。
一体、いつ転び落ちて朽ちるのかも分からないのに、そんなことを微塵も考えることなく、自分にはなにも起こらないと、そう錯覚して生きる。
目先の欲に気を取られて足元を見ずに転がされる奴が周りには沢山居る。
彼らはきっと後悔するだろう。文学では感じられない彼らの情緒。酷く惨めで浅はかな。足取りも覚束無い者を見ているのは心底愉快だ。ハラハラするし、それでいてドキドキする。
私も今そういう位置に居るかもしれない。でもそれはそれで、美味しい。
エゴで身を絶やすなら本望だろう。
だって私の我儘には、それだけの大義があるんだから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?