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鬱とは、またそれについてのエンタメ性。

鬱。鬱だ。言わずと知れた鬱。鬱病の鬱に、憂鬱の鬱。移しみの如く陰鬱とした鬱。
トラウマと同様、すっかり安っぽくなり果て、最早プチプラの域にまで達しているであろう鬱だ。
その鬱についてなのだが、これはもうどうしようもく、なんの言い訳もなくハッキリと述べよう。
要は「不良品」ないし、「欠陥品」の烙印だ。

人は皆それらの端々を持って生を受けた。受けさせられた。きっとこれはただのネガティヴな捉え方で実際のところはなんの変哲もない単純な確率のお話だろう。しかし私は先の通りの考えばかりを巡らせてしまう。それは何故か。これまた取り留めるまでもない事柄、不良品だからだ。
なにせ今の今まで他者となんら変わらない、とあまつさえお勉強が多少なり出来ている、という点で人より秀でている、と思い違いしてしまう程までに不良品だ。

さて、話の本筋が逸れたが、ここで降り出しに戻そう。
鬱、それについては善性と悪性がある。
前者については至極簡単。「不幸を糧にする」だ。
人は皆、鬱を持って産まれると記述したが、大概、概ね、大多数の人はこれに当て嵌る、と思っている。偏見かもしれないが。

後者については、私の様な、あらゆる痴呆の事を指す。
たかがタンパク質が多いだの少ないだの、はたまた種類が違うだの。そんな程度の事で身体全てを揺さぶられる。因みにこれは比喩ではない。実際に揺さぶられる。意識は胡乱で酩酊し、柔らかな希死念慮に抱かれ意識が陶酔する。
自覚という念を内包した瞬間から脱落者。その実敗北者だ。

如何に残酷か端っこだけでも理解してくれたなら結構。そしてまた、こうした「悲劇のヒロイン」的残念思考も理解してくれたなら万歳合唱するだろう。元より一人なのだけれど。

詰まる話、鬱病を患った患者という存在は人という輪に於いて最悪、以外の何もならないのだ。というよりも最早災厄とも呼べるだろう。
自分の事すら満足に納得出来ずに居る人に、一体何人の他者が手を差し伸べるだろうか。偏見塗れで汚れた色眼鏡を通して見てみる限りは、居ないに等しい。
医者はどうだ。医者は商いであるから、損得勘定のそれは本来の意味と違ってくる。
では友人はどうか。友人もまた好奇心や同情、自我と理性の豊かさに身をやつす、という可能性を考えればノーだろう。
では両親は。これも考え難い。欠陥品、不良品を作った張本人だ。何かしらの面白くない考えを持つのが過半数だろう。結果はノー。
八方塞がり、四面楚歌。勿論敵は自分。そんな厄介極まりない思考に陥らせるのもまた自分。
負のループというのはこういったものだ。
決して揺るぎない信念よりも揺るぎ難い、気の揺るぎ。慟哭したところで自身に糾弾されるのがオチになるに違いない。

しかしどうだ。ある種の乖離さえ患ってしまえば、そういった念への畏怖も悲劇も喜劇に見えるというもの。
鬱は変幻自在に蠢き喚き果てなく肥大化する。
視点を変えればエンターテインメント性バッチリ、そうかもしれない。
言葉さえも中身も意味さえも安っぽくなってしまったことだ。丁度良いのではなかろうか。

昨今の鬱については、はたまた鬱に耐えうる、いや、鬱に打って変わっての面白みを含む芸術になる可能性さえも秘めてある。隠さずとも答えは明白。自明の理。「躁」だ。今がその状態かもしれない。
得体が知れず、ただ嘯き吹聴するだけの嘘。
ならば信用ならない語部の実態は鬱と躁だ。
言わずとしれたエンターテインメント、文学。
鬱は、「文学」という名の芸術そのものだった。

気分転換、娯楽、その内面こそ業腹なのだ。
不愉快なことが愉快で堪らない。煮えに煮つめた結果出来た感情の渦巻きと底が見えない辿り着けもしない沼の様な吹き溜まり。ではそこに滞留しないものは。皆まで言わずとも分かるだろう。
狂喜と熱。鬱によってもたらされた大量のエネルギーは娯楽へと、楽しみへと昇華される。
気持ちの悪い詠だってメロディに乗せれば聴こえる代物にはなる。果てにあるのがこんなものだ。こんなものしか、ないのだ。長々と語った挙句がこれだ。
鬱の特効薬は鬱。なんと面白いのだろう。歯痒い思いをしてまで得たものが、今身を落としている渦中だなんて。二束三文も甚だしい。
しかしそれが実際のところ甘美で仕方がない。舌を噛み切る覚悟なんて端っから持ち合わせていないのだから。
緩く停止していく重量物の如く、じわじわとその身を潰す鬱。だか下は不思議と固くない。これも想像に難くないだろう。そこにあるものは柔らかな鬱なのだから。

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