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「ら抜き言葉」について思うこと

私は、SNSに投稿されている文章を読むのが好きだ。
「お~!わかるわかる。」と同感したり、「うまいなぁ、この文章。」と感心したりを、さらっと味わえてしまうのが、その醍醐味だ。

だけれども、同時に、ちょっとがっかりする時もある。


この文章好きだなぁ、と思って読み進んだ私の目が、止まる。
ある言葉の上に、留まる。


ああ、また留まってしまった。
気にしないようにしよう。

でも、その時点ですでにアウト。
バツ印が付いてしまう。
付けてしまう、私は、それに。

何に?
「ら抜き言葉」を使った文章に。

     ・・・・・

「それ、食べれないの。」
「結局、映画観れなかったよ。」
「18時までに来れる?」
「最近、寝れないんだよ。」

世の中は、「ら抜き言葉」に溢れている。
テレビ番組の街頭インタビューの、画面の下のテロップは、まださすがに正しい表現に訂正された文章が映し出されてはいるけれど、でも近い将来、その訂正もなくなるかもしれない。

親しい人との会話では、私だってうっかり使っている時がある。
(極力注意はしているつもり。気づいた時は言い直す。)

しかし、目上の方との会話や、紙やパソコン画面上の書き言葉に使われてしまう、「ら抜き言葉」には、私は、正直厳しい。かなり厳しい。
聞いたとたん、見たとたんに、口からこっそりとため息が漏れてしまう。あぁ、この人もか、と思ってしまう。

時にそれは、その相手への評価にさえ発展してしまう。

自分でわかっている。
それが、決していいことではないって。

     ・・・・・

「ら抜き言葉」については、
太宰治が「道化の華」で「見れなかった」を使用。
 (おそらく方言)
SMAP「夜空ノムコウ」の歌詞で「これた」の表現使用。
 (スガシカオさん作詞)
金田一晴彦先生が「起こりうべくして起こった現象」と発言。
 (2004年 NHKの追悼番組)
金田一秀穂教授の
 「『ああ、変わってきたのか』とは思うが、乱れているとは思わない。」

 (2017年1月13日 毎日新聞・東京朝刊)
という事実や、以下のような意見もある。

日本語は変化するもの。
という意見が主流になりつつあるのだ。

     ・・・・・

また、Google Translate で、日本語→英語を入力すると、
以下のような結果が出てくる。
(これは、上の「『ら抜き言葉』は理由があります。」
 に説明されていることの別の具体例である。)

*あなたは、肉を食べられますか?(可能か否かの疑問文・正確な表現)
  Can you eat meat?
*あなたは、肉を食べれますか?(可能か否かの疑問文・ら抜き言葉)
  Can you eat meat?
*あなたは、肉を食べますか?(普通の疑問文)
  Do you eat meat?

*食べられる
  can be eaten
*食べれる
        can eat
*食べる
   eat

ここには、「ら抜き言葉」になりがちな要因が示されている。
「れる・られる」という助動詞が、受け身可能・自発・尊敬
という四つの意味を持つため、
「食べられる」を、可能を表わすつもりで使っても、
「られる」という音につられて、受け身に取られる可能性が大きい、
ということだ。

     ・・・・・

私が「ら抜き言葉」に対して、とても敏感になった理由は、恐らく、幼いころの学びと、成人してからの新たなる学びと仕事だ。

「美しい日本語を使いましょう」という教えは、「美しい日本語を使いたい」という思いにかわり、言葉と表現方法に興味を持つようになり、再び、もっと学ぶことを選んだ。

でも、すでに記してもいるが、「ら抜き言葉」が氾濫する世の中を憂い、しいては、その表記がある文章にがっかりしたり、使った人その人の評価にまで及ばせてしまう自分をいかがなものかな、と思うようになった。

特にここ数週間、その悩みは強まった。

自分の反省を、きっちり腹に落とし込みたい。
そのひとつの方法として、人の意見を聞きたいと思った。
そして、教える、ということを職業にしている人たちに聞いてみることにした。

     ・・・・・

質問内容は、概ね以下のとおり。
*「ら抜き言葉」についてどう思っているか。
*生徒の文章に使われている時はどうしているか。
*話し言葉の場合はどうしているか。
*今後「ら抜き言葉」は普通になると思うか。

小学校の教員をしている息子の意見
*生徒の作文に使われている時は、赤ペンできちんと訂正する。
*課題提出のノートの場合は、”ら”を赤ペンで足すくらい。
*授業中の発言で使われた場合は、訂正をする。
*日常会話では、目をつぶる。
*美しい日本語を使うべきだと思っているので、「ら抜き言葉」には違和感があるけれど、言葉はかわりゆくものだという考えが根底にあるので、それが主流になったら、それはそれで仕方ないと思う。

小学校の副校長をしている友人の意見
*「ら抜き言葉」は校長も自分も危惧していて、よく教員には気を付けるようにと言っている。
*書き言葉はもちろん、口語でも使わないのが正しいと思う。
*時代とともに「ら抜き言葉」が市民権を得るかどうかは、わからないけれど、私は抵抗している。
*「ら抜き言葉」に限らず、言葉を正しく使うことは、本当に難しいと思っているし、自分も完全に正しいわけでもないと思う。
 だからこそ、正しい言葉を子供のうちに正しく教わらないといけない。
 その点においても、教員の責任は非常に重いと思っている。

大学の文学部で研究室をもっている友人の意見
*言葉は変わっていくものだからいい、という立場もあるけれど、
 自分はら抜きには抵抗がある。
*学生が使ってきたら、専門家でも否定しない立場があることを説明して、口語的だからやめた方がよいと助言する。
*口語の場合は、発表時は指摘する。

学生時代から俳句を学び、俳句の指導者をしている友人の意見
*大学生の息子の友人たちは、特に意識もしないで使っている。
 自分は、彼らが使った時は、いちいち注意して直させているが、時代の変化には抗えないような気がしている。
 例えば「お茶を飲もうよ」も「お茶しようよ」になったから。
*生徒さんたちには、文法については正しく使うように指導しているが、大抵の人は文語で作るので、古文の文法が対象になってしまう。
*あまり本を読まくなって、SNSで短い文章に慣れてしまった若い世代が今後どう反応していくのか、気がかりであり、同時に興味津々でもある。

     ・・・・・

誠意をもって考え、伝えてくれた4名に、感謝する。

同じ学び舎で学んだ古くからの友人たちと、息子。
彼らの根底にある「ら抜き言葉」への違和感と抵抗感は、私とほぼ同じ感覚であることがわかった。

ただし、彼らには、許容という思いもある。
今の私より、ずっと寛容だ。

私が深い信頼をおく彼らの意見を、真っすぐに受け止めることができた私は、次のように決めた。

これから先、ひとが発信する文章について、少なくとも「ら抜き言葉」については、目が止まったとしても、そこに心は留めないで、通り過ぎよう。

ただ、私の「美しい日本語」についての思いは、これからも大切にし、少なくとも、私自身は、きっちりと拘っていこう。

そして、最後に、ひとりでも多くの方々が、「美しい日本語」を少しでも長く、守っていって欲しいと、私は、願う。

     ・・・・・ end ・・・・・

タイトル画像 : お気に入りの一筆箋と葉書とペン&ペンケース 

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