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夜香閑話 神の道と人の道の関係性

本居宣長著の『古事記伝』の中から神と人との関係性について強めに触れているのでここで触れていきたいと思う。

「人は人事(ひとのうえ)を以て神代を議(はか)るを
   我は神代を以て人事(ひとのうえ)を知れり」と書かれている箇所がある。

ここでは人の世とは何であるのかが書いてあるところで
世間にある事の状況は神代にあり、その神代の跡を以って考えるべきだということになります。
神代の出来事をよくよく工夫して捉えること。何事もその跡を探していくことが、「物の道理を知る」こと繋がるとも書かれています。

現世のわたしたちが今遭遇している状況は神代と同じとなれば
古事記や日本書紀は、人の道の上で困難に立ち向かうときのヒントがたくさん詰まっていることがわかる。

ここで出てくる事柄の「事」という奥義には、『言(言葉)が即、事(事柄)』になるという教えが古神道の言霊学において最初に触れるところであります。

古神道においては言葉の「言」はそれぞれの固有の振動数や質量をもち影響を与える神霊活動であって、神と同じということになっています。

そして「言」と「事」の区別無い状態であるので、事代主神という神力は名前から察すると、人間の理解を超えたところの謎な行動が多いのは、ご神名にある通り「事」が言葉の「言」と結びついているから、言葉として発したならば、直ちに事柄として現れ、一ミリのズレなくそうなるということであるから、国譲りの時に大きな責任を頼られ、大国主神もその神力を知っていたのでその通りに従う他になかったのではないでしょうか。

本居宣長翁は、神々の時代に事実としてあった出来事を
「いささかも私のさかしらをまじへず」
(*さかしら=賢そうにふるまうこと。利口ぶること。)
または、
「儒佛等の意を心にまじへず此習気をよくよく洗ひすて候て
 清らかなる心を 以て古事記日本紀の上古の処をよく見ること」
神代の道理を明らかにするのに不可欠の要件であったとされています。
そのまま受け入れる=神のままに=惟神に・・という流れにつながる。

古事記においての言葉を解釈するにも「言」が発した「事」をありのままにすることが必要となる。

「まことの理というものは 、はなはだ霊異(あや)しく妙なるものにして、さらに人の小き智をもて測識べきにあらず」と
だいぶ強めな文章だが、使う言葉の文章に品格があるところが洒落ているわ〜
人の小細工した考えなど、いらん〜ってことになる。

世の中のまことの理は人間の考察知性や能力の及ばないところにあることだよと
喝破している声が聞こえるような文章で爽快さがあるわ。

人間の考察を入れた文章、書物、ニュースや最新の情報、または神通が降りて真実はこっちだと様々に流れてくる現在。
実はこうだ!本当はこうだ!などというインパクトある言葉に惑わされ
人の考察や主観を見聞きし、それがまるで真実なんだと、
知ったつもりになっていたならば
本当に情けない話であって、情報を取り入れた分だけ時間の無駄であります。

まことの理は永遠に到達不可能なものである!と先人たちは見抜いている!!

「とかくはかりしるべきかぎりにあらざる 」 (『天 祖 都 城 辨 』 8 - 5 )
   
結局のところ、
人智によっては測り知れない神々の行為は
そっくりそのまま受け入れるしかないものだー!


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