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読書日記#31 本は棺に入れてもコンテンツのバトンは受け継がれると信じてる

4月★日

棺に入れる本、何がいいのかな、と本棚を見つめながら考える。

そして本当に父はいないんだろうか、何かのドッキリではないのかとまた思ってしまう。

そう、父が他界した。

突然のできごと。

コロナから肺炎をこじらせて、2度目の通院のために外を歩いているところで、酸素が脳に十分に届いていなかったことから心臓が止まって倒れた、らしい。

心停止で10分経過すると、原因が何であれ、救命はほぼ難しいのだそうだ。なんとなく知ってはいたけれど。

身元不明で救急車で運ばれたことから、警察の捜査を受けた。

あの防犯カメラの映像が忘れられない。脳裏に焼き付いてしまうってこういうことかな。

路上でうずくまる男性がぼんやりと映し出されていた。それが父だった。

命の炎が消えていく最期の瞬間。
あの時父は、何を思ったんだろう。まさか死ぬなんて、思ってなかっただろうなぁ。

とんでもなくリアリティがあるのに、それゆえに逆に映画のようで、嘘みたいな光景だった。

大変な高齢ならまだしも、人ってもっと見るからにつらい病気になったり、事故に遭ったり、健康な人の場合には、もっと劇的な何かを経て死に移行するものじゃないのかな。
こんなに一瞬で事切れるようなことがあっていいのか。

今日は母を1人にさせてはいけないという気持ちもあって実家へ手伝いにきていた。
葬儀の準備があるのかと思いきや、ひたすら処分する衣類を選別する時間だった。

歯ブラシ、靴、コートなど、生活動線上に思い出の品が家にたくさんあるのが、不在を痛感して耐えられないと、母が言うので。

ゴミ袋にして15袋くらい。
ひたすら詰めて捨てに行く。

ネクタイ屋さんができるくらいに膨大にネクタイがあった。
新品の靴下も山盛りだった。
父はリスのように大切なものをしまい、そしてその存在を忘れる。そこから芽が出て、木に成長し、実がなるわけでもないのに。

片付けが一段落したところで、棺に本を一冊入れるとして、何がいいかを話す。

読書家の父には、三島由紀夫、原田マハなど好きな作家はたくさんいたけれど、でも、やっぱり父が最も愛した作家は村上春樹だろうと思う。先に書いたように収集癖のある父は、ほとんどすべて村上春樹著の単行本の初版を所有している。

「やっぱり『風の歌を聴け』かな?最初の一冊」

「え。最初の一冊なら、私読むかもしれないからとっておいて」

「えー、今まで興味ないって言ってたのに。でも最近のを入れるのは微妙だよなぁ。エッセイよりは小説がいいかな」

「『ノルウェイの森』なら私もう読んだからいいんじゃない?」

「前後編に分かれてるからどちらか一冊というのはちょっと…」

一連の母とのやり取りを経て、私自身読んだことはないけど、「回転木馬のデッドヒート」にした。もしあの世的な場所にいくつかの待合室があるなら、短編集の方がキリよく読めるんじゃないかと。

しかもこれなら、私はKindleで積んでいるからもらえなくても心残りはない。

父の本棚の本はいくらでも持って帰って良いというので、取り急ぎ春樹本「ふしぎな図書館」と「神の子どもたちはみな踊る」の2冊を選んだ。

単行本の趣深い装丁、よきです。

「ふしぎな図書館」はイラストと装丁に一目惚れ。村上春樹の著作をだいたい知っているつもりでいたけれど、この本は知らなかった。
図書館というテーマもいい。

「神の子どもたちはみな踊る」はタイトルしか知らなかった本。これはほぼ直観。不穏な気配の中に命の輝きを感じて、なんだか今の気分にフィットした。

ベッド横のデスクには原田マハ「リーチ先生」が置いてあった。読み途中ならこれを入れてあげるのもいいかなと思ったけど、最期に読み終えた本だそうだ。おもしろいから読みなよ、と母にも薦めていたそうだ。

この本も私は積読している。

もともと「楽園のカンヴァス」がおもしろかったことから母に本をあげたのは私だ。それを母が読み、おもしろいからと今度は父に薦めて、そこから父が原田マハを読むようになった。今では私よりも著作を読破している。

たくさんの衣類を廃棄したけれど、本についてはしばらく眺めながら暮らすことになる。いくつかは手にとって読むだろう。その感想をどこかに発信して、またそれを読む人が新たに出てくるかもしれない。
その本を購入した父の感想をきくことはもう2度とできないけれど、コンテンツのバトンは繋がっていく

その後、葬儀に向けてやったことといったら、母にくる少し厄介な参列者からの問い合わせに、当たり障りない返信をしてあげることくらいだった。あまり役に立ってはいないけれど、思い出の品を処理しながら、たくさん話ができたことを、母は喜んでいた。

部屋の片付けとゴミ捨てで、肉体的にも疲れて、帰宅後お風呂に入る。

お風呂で「悲しみの秘義」を読む。今までお風呂でぼーっとする中ではなかなか言葉が頭に入ってこなかったんだけれども。
突然に染み込んでくる。私のここに出てくるようなフレーズに対する浸透圧が下がったのか。

誰かを愛しむことは、いつも悲しみを育むことになる。なぜなら、そう思う相手を喪うことが、たえがたいほどの悲痛の経験になるからだ。

これはいつも私が考えていること。誰かを愛することと失うことは絶対にセットだから、この人を失う苦しみを全て受け止める覚悟で向き合わなければいけないと。

逝った大切な人を思うとき、人は悲しみを感じる。だがそれはしばしば、単なる悲嘆では終わらない。悲しみは別離に伴う現象ではなく、亡き者の訪れを告げる出来事だと感じることはないだろうか。
(略)
あなたに出会えてよかったと伝えることから始めてみる。相手は目の前にいなくてもよい。ただ、心のなかでそう語りかけるだけで、何かが変わり始めるのを感じるだろう。

「亡き者の訪れ」
存在の不在と出会う、みたいなことかな。そんな考え方、悲しみの果てを見た人にしか出てこないフレーズだな、と思った。

私だったら棺に入れて欲しい本はなんだろう。

できれば、積読本はひととおりあの世にも転送して消化していきたいけれど。そうもいかないんだろうなぁ。

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