城輪アズサ

時評や論評を上げていきます。

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最近の記事

亡霊、ひび割れたイノセンス──『ガールズバンドクライ』のために

はじめに  本記事ではアニメ『ガールズバンドクライ』の物語・表象分析を通じて、それが胚胎していた可能性を描出する。  それはさらに、追懐としても機能する。過ぎ去ってしまったすべてのもの。失われてしまったすべてのもの。いつかの放課後、いつかの曇天、いつかの夢、いつかの失望、いつかの敗北。そうした一切にまつわる感傷を精緻に再構成し、しかるのちに解体・葬送すること。奇蹟からも破局からも疎外されたどこか・だれかのためのテクスト。そのようなものとして、これはある。 Ⅰ「井芹仁菜

    • 【コラム】ブログカルチャーと人文学についての雑感

       ブログカルチャーのゆくえについて考えている。あるいは、かつて存在した(と思われる)ブログカルチャーが胚胎していた可能性を。  既存の流通ネットワークのオルタナティヴとしてのブログ。商業出版の世界からは立ち上がりようもない言葉を掬い上げ、しかるべき場所・ 人に配送するシステム。そう書いたとき、われわれは東浩紀の名を思い起こすかもしれない。網状言論・波状言論。彼とその追想者たちが行っていた活動。そこに累積しているテクストの大半は、すでに読むことの困難なものとしてあるが、それは

      • 【エッセー】河原木桃香はOrangestarを聴いていたのか?──『ガールズバンドクライ』と初夏の追想

        1.近接するノスタルジー  河原木桃香。2004年生まれ、20歳。バンド:トゲナシトゲアリのギター。無論、それら言葉の連なりが指し示すのは、複数のクリエイターによって形成され、絶えず更新され続ける幻像──有り体に言えば「設定」だ。しかしそれゆえに、その存在は一つの切実さをもってわれわれに迫る。  2004年に生まれるということ。それはゼロ年代に生まれるということであり、そして2010年代(テン年代)の文化環境において思春期を送るということである。その点に関して、この一連

        • 【時評】声と絶滅、あるいはわれわれの客観的真実について──『関心領域』の〈内〉のために

           監視カメラ。それは「のぞき穴」として、特異な位置から現実を観測し、平面に再配置する。固定された、限定されたまなざしが、一つの映像を織りなす。──と、そこで疑問が生じてくる。果たして、監視カメラによって作られた映像は「作品」たりえるだろうか。  無数のカメラ──その直線的なまなざし──のショットの連鎖によって、それを接続させることによって、映画(=作品)は成り立つ。その際、視点は剪定され、結果として画面には単一の結果だけが残る。映し出される画面は、否応のない、固有のものとし

        亡霊、ひび割れたイノセンス──『ガールズバンドクライ』のために

        • 【コラム】ブログカルチャーと人文学についての雑感

        • 【エッセー】河原木桃香はOrangestarを聴いていたのか?──『ガールズバンドクライ』と初夏の追想

        • 【時評】声と絶滅、あるいはわれわれの客観的真実について──『関心領域』の〈内〉のために

          【日記】悪の彼方へ/デストラクションをめぐって

          ・24.6.7-①  神戸三宮駅を抜けると、そこはパチンコ屋であった。  都心の、針金細工のように入り組んで天を衝くように伸びる諸々の建築たち。その合間にその風景はあった。それ自体に驚きはない。僕の心を捉えたのはそこから流れ出てきていた音楽だった。  Adoの《唱》。昨年何度となく聴いたポップスだ。紅白歌合戦で歌われていた記憶がある。自分から進んで聴くことはなかったが、「目蓋を持たない耳」に、それはほとんど酸素のように飛び込んできていた。その記憶がある。  だからそ

          【日記】悪の彼方へ/デストラクションをめぐって

          Where Our Decade Is──北出栞『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ』書評

          はじめに  前島賢『セカイ系とは何か』はタイトルにあるように、〈セカイ系〉という、90年代後半からゼロ年代にかけての、国内サブカルチャーの世界における「文芸」運動を文化史的に解説したものである。以下の説明は、あらゆる言説の中で最も簡潔に、そして明快にこの概念を切り取ったものとしていまなお有効であるように思う。 1995年放送の『新世紀エヴァンゲリオン』を始点としたそこにおける史観は、きわめて精細に時代のフレームを捉えていたが、それゆえに〈セカイ系〉という語の限界を指し示す

          Where Our Decade Is──北出栞『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ』書評

          【リスト】城輪アズサ・文フリ東京38寄稿一覧

           タイトルにあるように、5/19に東京流通センターで開催される文学フリマ東京38に際して、僕(城輪アズサ)が、いくつかの批評同人誌に寄稿した原稿を紹介していきます。ライトノベル、アニメ、少年漫画……。10代のころに触れていたコンテンツを中心に、幅広く書かせていただきました。  神戸在住者ゆえ(というか、学生特有の金欠のゆえ)今回当日の参加はできないのですが、行かれる方のご参考になればと思います。 「なぜアニメ『アンデッドアンラック』はシャフト演出を用いたのか?──ジャンプ

          【リスト】城輪アズサ・文フリ東京38寄稿一覧

          【エッセー】空無のために──「きみ」と「ぼく」とは別の仕方で

           突然だが、ヨルシカだと《爆弾魔》が一番好きだ。それも《負け犬にアンコールはいらない》に収録されたものではなく、《盗作》に収録されていた(re-recording)の方だ。僕自身まだ青臭い若造ではあるが、20代の終わりが見えてきた時分に、改めてこの曲をアルバムに入れなければならなかったn-bunaの気持ちは痛いほどよくわかる、と思う。むろん勝手な妄想、こう言ってよければ醜悪な自己同一化なのは間違いないが、どうしようもない。  どこか「若気の至り」として、ある種の幼さをたたえ

          【エッセー】空無のために──「きみ」と「ぼく」とは別の仕方で

          【時評】霧と爆燃の時代の果て──『オッペンハイマー』によせて

           数多くのメディア論を記したアメリカの理論家レフ・マノヴィッチが名著『ニューメディアの言語』を刊行したのは2001年。奇しくも同年にはアメリカ同時多発テロ──9.11が発生している。ワールド・トレード・センターのツインタワーが炎を上げて崩壊する様はメディアを通じて全世界へと拡散され、事件そのものは、以降十数年の陰謀論を規定することになる。無論、事件の余波はそうした「不気味な」精神文化の形成にのみ及んだわけではない。2003年のイラク攻撃にかかる世論の爆心地は紛れもなくこの事件

          【時評】霧と爆燃の時代の果て──『オッペンハイマー』によせて

          【論考】虎杖悠仁は「いつ」から来たのか?──『呪術廻戦』と「参照」をめぐって

          はじめに  2024年3月26日月曜日。この日発売された週刊少年ジャンプ2024年17号には、少年漫画『呪術廻戦』の第254話が掲載されている。2018年3月から連載されている本作は今年3月をもって連載6年目に突入したことになるが、今なお、その「終わり」は見えていないように見える。  なるほど紙面で繰り広げられているのは「最終決戦」だ。呪いの王両面宿儺を中心に据えたレイドバトル。その決着は恐らく、漫画の決着にもなる。死滅回遊の結界を利用した日本国民呪霊の顕現だとか、ある

          【論考】虎杖悠仁は「いつ」から来たのか?──『呪術廻戦』と「参照」をめぐって

          【時評】ヨルシカをコピーすること、僕らの時代に終わりがあること──ヨルシカ、あるいは郊外のコピーバンドについて

           つい先日、個人的な縁で大学の軽音楽部(サークル、ではないらしい)の卒業公演を聴きに行った。どことなく寂しさを漂わせる街の、繁華街にほど近い場所にある地下のライブハウス。出ていたバンドはほぼすべてがいわゆるコピーバンドであり、卒業後も音楽を続ける、という志向のあるひとびとではなかったように思う。  その中に一つ、ヨルシカをコピーしているバンドがあった。  ヨルシカ。2019年前後に圧倒的な支持を得た「夜行性」が一つ。  YOASOBI、ずっと真夜中でいいのに、そしてヨル

          【時評】ヨルシカをコピーすること、僕らの時代に終わりがあること──ヨルシカ、あるいは郊外のコピーバンドについて

          【散文】「ゴジラ」と批評のエア・ポケットについて──アカデミー・ミレニアム・怪獣特撮

           今日(2024.3.11)、米アカデミー賞の全部門における受賞者・受賞作が発表された。日本からは宮崎駿監督『君たちはどう生きるか』、そして山崎貴監督の『ゴジラ-1.0』がそれぞれアニメーション部門、視覚効果賞を受賞し、とりわけ後者は、スタンリー・キューブリック以来となる監督・VFX兼任の監督作が受賞したことによって「快挙」と評されていた。  キューブリック、あるいはスピルバーグ。そうした固有名が代表するようなハリウッドの巨匠、およびその大作と、日本の特撮映画が並び立つとい

          【散文】「ゴジラ」と批評のエア・ポケットについて──アカデミー・ミレニアム・怪獣特撮

          【時評】黙示・シネコン・絶望──『ボーはおそれている』および「映画」への怖れについて

          (画像引用元:https://youtu.be/XrCg9G_OHAA?si=jGRtkQogFGxclDq3 )  物語を成り立たせるもの。それはしばしば「工学」にもなぞらえられるほど精緻で隙のない構造・類型だ。なればこそ、批評家はそこに精神分析的な視座を持ち込むことができた。構造体としての物語を、解体することなくつなぎ直すこと。そこに、提示されたものとは異なった仕方の秩序を見出すこと。それはどこまでも作品の「拡張」として行われ、完遂される。それは変成ではない。それは破壊

          【時評】黙示・シネコン・絶望──『ボーはおそれている』および「映画」への怖れについて

          【時評】終わらない楽園のための賛歌──『仮面ライダー555 パラダイス・リゲインド』と20年を駆ける本能について

          1.ゼロ年代における『仮面ライダーファイズ』  「仮面ライダー」は、しばしば「仮面」をめぐる物語を展開してきた。  仮面。正体を文字通り覆い隠し、装うことを可能にするレイヤー。それは外的現実に介入するための武装である以上に、その正体を、内にあるものを秘匿するための膜であり、そしてそれゆえに、仮面ライダーという実存は常にいま・ここの現実から半歩遊離した存在として機能していた。  いま・ここの──「内」の秩序に留まりながらも、それを裂開させる可能性を秘めた実体。そのような

          【時評】終わらない楽園のための賛歌──『仮面ライダー555 パラダイス・リゲインド』と20年を駆ける本能について

          【時評】ツギハギたちの憂愁──『哀れなるものたち』によせて

          (記事サムネイル画像引用元:https://youtu.be/kl0lv3IVCzI?si=CaRN6wFk-uZiiFjQ)  成熟。それは近代市民社会を通貫するタームであり、個人の実存に分かちがたく食い込んだ生臭く、重苦しいミームの一つだ。  子どもから大人へ、未熟から成熟へ。発達というもの、個人の身体が被る宿命的な変化というものを、科学の原理・規範の原理へと回収せしめんとする欲動。それが、ここにはある。  それは換言すれば、「個人」の実存というものを、言葉の原理へ

          【時評】ツギハギたちの憂愁──『哀れなるものたち』によせて

          お手本にしてる批評三選

          こんな記事があったので自分も書いてみることにする(元記事は同人が中心だけど、長らく商業しか読んでこなかったので、ここではそっちがメインになるかも……)。 1.伊藤計劃『侵略する死者たち』&その他  見出しにした『侵略する死者たち』はユリイカのスピルバーグ特集に寄稿されたもの。個々の作品をノードとして、座談会などを引きつつ、ゼロ年代スピルバーグの映画を通貫するテーゼについて検討していくもの。  批評に求めているものはいくつかあるけど(知的な雰囲気、みたいな俗なものもその一

          お手本にしてる批評三選