【時評】ツギハギたちの憂愁──『哀れなるものたち』によせて
(記事サムネイル画像引用元:https://youtu.be/kl0lv3IVCzI?si=CaRN6wFk-uZiiFjQ)
成熟。それは近代市民社会を通貫するタームであり、個人の実存に分かちがたく食い込んだ生臭く、重苦しいミームの一つだ。
子どもから大人へ、未熟から成熟へ。発達というもの、個人の身体が被る宿命的な変化というものを、科学の原理・規範の原理へと回収せしめんとする欲動。それが、ここにはある。
それは換言すれば、「個人」の実存というものを、言葉の原理へと回収することを意味する。成熟、という価値を、規範を内面化したとき、身体は、実存は、すべて言葉に隷属するものへと変じる。
成熟とは言葉である。そしてそうしたテーゼのうちでは、成熟という両極的な状態変化の底を流れる、発達という時間的連続をしるしづけるものは、言葉をおいて他にない。
人間の発達。それは言葉によって解される、と断じることはできるだろうか。
言語学の一分野、生成文法論においては、人間の脳はア・プリオリに言語を生成する機能を既にして有していると定義される。また実践のレベル──こう言ってよければ「現場」のレベルにおいては、発話と語の継続の度合いが、直裁的に発達の度合いと結びつく。そのようにして育児の主体は、人間の内面という不可知の対象を把握する。
ひるがえって『哀れなるものたち』においてもまた、脳をコンバートした主人公の発達はそのような「言葉」の発達によってしるしづけられていた。生まれ直し、生き直し。それを把握するためのツールはやはり言葉であり、語彙の増殖はそれ自体として、発達が被る複雑性とただちに結びつく。そしてそれはまた、脳の発達をも意味している。
実存の発達を、言葉の発達、脳の発達から把握するということ。今日、当然の振る舞いとして解されているそれが、近代以降に成立した人間観だというのは、フーコーを参照するまでもなく自明の前提として共有されているはずだ。しかしそれこそが、ここにおいては問題となる。
『哀れなるものたち』が参照した作品の中に『フランケンシュタイン』が含まれているのは間違いがない。人造人間。科学の言葉によって記述され規定された落とし子についての物語。それは近代の近代性を暴露するある種の寓話としても解されうる作品だった。
「ゴッド《GOD》」とよばれる主人公の父親は、つぎはぎの、紛れもないフランケンシュタインの意匠をともなってそこに立ち現れていた。彼の身体はその父──画面に映ることのない、科学そのものの比喩であるような主体──によって切り刻まれ、コラージュされたものだった。それゆえ彼もまた、人間の身体を切り開く臨床医学に従事しつつそれを研究するのだが、ここで重要なのは、唯一「父の父」が──科学の言葉が、原理が侵襲していない領域があるという点だ。
それこそが彼の脳。顔にまで及ぶ裂開、侵襲の手の届かない、ある種の聖域だ。そのようなものとして脳はあり、そしてそれゆえに、彼は科学の落とし子として、科学そのものとして世界を規定することができた。
分節化された他の器官に対して、彼の脳だけは無謬の、完成されたものとしてそこにある。
社会。異形の、スチームパンク的な意匠によって規定されたこの映画の社会から疎外された生は、そうして、脳のみを根拠としてそこに存在する。
そのようなありかたのネガフィルムとして主人公はあった。彼女は脳を除いてすべてが成人女性の身体をもつ。ただ一つ、白紙の脳だけをその中枢に抱えて彼女は生きる。科学の言葉を書き込まれる前の脳。それは彼が──「ゴッド」が最も希求していたものではないか。
しかしその希求は、一つの疎外を析出するように思う。
言葉の発達が脳の発達、並びに成熟を指し示すような認識世界において疎外されるもの。それは「意志《SENSE》」だ。
主人公の成長は早い。2時間半近い映画の中で、何十年という人間の生涯を記述するうえで、この種の加速を避けることはできない。そしてこの加速の中で、常に言葉の発達は主人公の意志を超え出てしまう。それは(成人女性の)身体と(胎児の)脳の乖離と同様の乖離でもあり、その疎外の様式は、言葉と言葉の間隙から時折顔を覗かせ、そして次第に、画面をまなざすこちらへと接近してくる。
これはその疎外を、成熟を、意志を問う物語だった。科学の言葉の射程外──否、言葉というもののを経由しつつ、改めてその射程の外から、成熟というものを、一人の人間がその生を収斂させていく過程を捉え直し、描き出した作品だった。
そのような映画として、これは存在する。
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