お手本にしてる批評三選

こんな記事があったので自分も書いてみることにする(元記事は同人が中心だけど、長らく商業しか読んでこなかったので、ここではそっちがメインになるかも……)。


1.伊藤計劃『侵略する死者たち』&その他

 見出しにした『侵略する死者たち』はユリイカのスピルバーグ特集に寄稿されたもの。個々の作品をノードとして、座談会などを引きつつ、ゼロ年代スピルバーグの映画を通貫するテーゼについて検討していくもの。

 批評に求めているものはいくつかあるけど(知的な雰囲気、みたいな俗なものもその一つだったりする)、その中でも自分はセンス・オブ・ワンダーとか、エクストラポレーション(SF評論)とか言った、思弁の閃きを特に希求していて、この批評はそうした欲望に100%応えてくれる。

 というかぶっちゃけてしまえば「エクストラポレーション」という言葉自体伊藤計劃の評論で初めて知ったので(『エクストラポレーション礼賛』。なおこのタイトルは筒井康隆のエッセイのパロディ)、批評の姿勢自体、氏のブログ(主に批評文が載っていた)に倣っているところがある。

 他の文章で言えば『〈ボーン〉シリーズ』論であるところの『理由と喪失』(斎藤環とか引きながら「敵」と「理由」を失っていく世界について検討する)とか、アンドリュー・ニコル論『いくさの王』(「寓話作家」としてのニコルを定義しつつ、『ロード・オブ・ウォー』の、先進諸国の人間の認識に肉薄した寓意性を取り上げる)、あと何と言っても『cinematorix』の『イノセンス』時評(緻密なディティールのすべてが映画を覆う「外殻」であり、映画的時空間それ自体が一つの殻──sheell of the ghostであるようなありかたを見出すもの。めちゃくちゃアクロバティック)が好きで、これは批評的にも極めて優れているように思う。

 批評とは眼差しであり(視覚中心主義を採用せよ、という話ではない。あくまで比喩として)、思弁であるということを教えてくれたのは伊藤計劃のテクストだった。

2.藤原聡紳『上遠野浩平VS「運命」』

 ユリイカ上遠野浩平特集所収の批評文。上遠野浩平は『ブギーポップは笑わない』(学園SFライトノベルの元祖)や『殺竜事件』(異世界ミステリーの白眉)などで知られる(最近はジョジョのノベライズなんかが有名かも)作家。

 なにせ人生で初めて読んだ批評(同氏のブログと合わせて)なので、思い入れも強い。

 宇野常寛『ゼロ年代の想像力』から「決断主義」というターム(90年代心理主義の「次」として仮構された、バトルロワイヤル的イデオロギー)を援用し、ポスト・セカイ系作家(決断主義作家)としての上遠野浩平と、特異な(荒木飛呂彦的でもある)運命論、そしてその超克を目指したターム〈戦士〉について追究していく。

 「決断主義」を、『ゼロ想』から拡張して『Fate/stay night』や『グレンラガン』にまで適応しつつ、『ジョジョ』から〈ファウスト〉の作家(上遠野浩平もじつはその中にいる)のラインに接続させる手つきが鮮やかで、自分の中の批評の原イメージはここにある。

3.斎藤環『身体・フレーム・リアリティ』

 ユリイカ押井守特集(ユリイカばっかだな……)所収。言わずと知れた斎藤環の批評。ここ10年くらいは一般書のイメージが強い作家(本業は精神科医)ではあるけれど、ゼロ年代初期の、ラカン派の紹介者・伝導者としての氏の文章はめちゃくちゃ硬派で良い(なお一般書も、読みやすさに反してかなりハイレベルと思う。『母は娘の人生を支配する』とか)。

 ここでもラカン派心理学を援用しつつ、『イノセンス』を中心に、「分節された身体」とそのイメージ統合の問題を、画面(フレーム)全体に関わる認識論まで敷衍するダイナミックな名作。

 これは今現在参考にしているものというより、これから参考にしたい・こんな文章が書きたい、という類のもの。公式の資料や自分の専門分野を織り交ぜつつ作品の可能性を拡張し、エクストラポレーション(既知の数値から未知の結果を導出する)を引き起こす本稿は自分の中では批評の完成型の一つ。

おわりに

 短めの文章を主に書いてることもあり、どうしてもその際に参考にしてる短いものが中心になってしまったが、ひとまず筆を置きたいと思う。

 長いものだと前島賢『セカイ系とは何か』とか宇野常寛『ゼロ年代の想像力』、『リトル・ピープルの時代』なんかも入れたかったけど、本格的に参照するのはこれからなのでひとまず割愛。

 あと他の方の三選も見たいので、この記事を読まれた方は是非……

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