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【時評】声と絶滅、あるいはわれわれの客観的真実について──『関心領域』の〈内〉のために

サムネイル画像引用元:https://youtu.be/oFaqgVl-TQ0?si=f3diFcvemrGM5T5Y

 監視カメラ。それは「のぞき穴」として、特異な位置から現実を観測し、平面に再配置する。固定された、限定されたまなざしが、一つの映像を織りなす。──と、そこで疑問が生じてくる。果たして、監視カメラによって作られた映像は「作品」たりえるだろうか。

 無数のカメラ──その直線的なまなざし──のショットの連鎖によって、それを接続させることによって、映画(=作品)は成り立つ。その際、視点は剪定され、結果として画面には単一の結果だけが残る。映し出される画面は、否応のない、固有のものとしてただそこに存在する。ここにある分かちがたさはしかし、監視カメラなるものの限定性を排除していないように思う。監視カメラの限定的で強硬なまなざしもまた──その無機質な画面構成もまた、作品たりうる。そのような視点に立ったとき、本作『関心領域』は始まったのではなかったか。

 監視し、監視し、監視すること。本作、および舞台となる邸宅は常にロングショットで撮られる。洗濯物やその他物品をナメとして、広々としたレイアウトが選び取られ、画面に提示される。そのようにして、視点は常に固有の位置から、窃視のような情感をたたえて、しかし同時に透徹したまなざしで現実を捉えていた。窃視と透徹。一見すると矛盾しているようなそれら二つの志向性が、この映画を分かちがたく覆い、規定し、構成している。そのありかたは、どこか、総監視が全面化した、オーウェリアン風のディストピアを想起させる。

 無論、ナチ・ドイツ的総監視は技術によって担われるものではなかった。ナチのイデオロギーに沿った監視を担い、民俗共同体異分子を炙り出していたのは「密告者」のまなざしであり、『1984年』に描かれるような隠しカメラ、テレスクリーンの無機質さではない。ナチ党の支配下において、「共同体」の人々を怯えさせていたのは「窃視」と、それを規定するベタなかたちでの暴力であり、主体なきまなざしはそこからは排除されている。現実としてのナチ・ドイツ。その「個人」を見つめるものは、どこまでも主体であったはずだ。

 ところで、窃視はまた、羨望をたたえてもいるはずだ。隣人への恐怖、とは20世紀的で、またそれが産み落としたディストピア的でもある偏執症的パラノイアックな認識だが、それらはすべて純化された現実の姿に他ならない。人間は恐怖だけで生きるのではない。そこには羨望の介在する余地もある。

 ルドルフ・ヘスはアウシュヴィッツ強制収容所の所長──〈内〉における軍人の極限だった。ゆえにこそ彼らの生活は相対的に豪奢であり、それは定点からのロングショットを多用してもなお〈外〉を映し出すことのできなかった画面構成──邸宅の巨大さにも表れている。その邸宅は圧倒的な存在感をもってわれわれに迫るが、この存在感を下支えしているものこそ、ナチが依拠した戦争(略奪)経済から産み落とされた大資本に他ならない。そしてナチ・ドイツにおける個人の「理想」は、どこまでも、その位置に収斂してしまうのではないか。

 ヘスの邸宅は、一つの「理想」だった。『関心領域』が画面に映し出すのはナチ・ドイツ時代における「私」の理想であり、それは「公」の方法論をもって提示されていた。すなわち「映画」として。

 監視カメラ的な映像構成はただちに、われわれの脳裏にドキュメンタリーの存在を想起させる。しかしドキュメンタリー──現実それ自体の活写──が「理想」を映し出すことはない。それはバイアスであり、ノイズであるからだ。そしてここで行われていたのはまさに「ノイズ」──イデオロギッシュな、現実の仮構にすぎなかったのではないか。あるいは、こう言いかえることもできる。

 本作『関心領域』は、ナチ・ドイツ時代のプロパガンダ映画(風のもの)として構成されていたのではないか。

 収容所所長の生活、という理想。その虚構。その幻想。それを映し出すこと。編集し、立ち上げる・・・・・こと。ここで行われているのは、ナチ党が積極的に行ったプロパガンダ映像の編纂と同様のものだったはずだ。

 「国民車」:フォルクスワーゲンは十全に生産することができなかった。アウトバーンは完成半ばで放棄された。ナチ党の活動にかかわる統計は、しばしば改ざんされていた(=現実を反映していなかった)。けれど映画の中で、そうした現実はすべて反転される。純化された、イデオロギーに通貫されたもう一つの現実=客観的真実が仮構される。そしてナチ・ドイツが滅んだ後も、作品だけは残り続けている。NHK「映像の世紀」で取り扱われる映像のいくつか──しばしば「記録映像」として提示される──はプロパガンダ映画の援用だ。そして『関心領域』もまた、そのようなものとしてあったのではないか。

 この映画の「理想」、記録映像的性格が仮構(風)のものとして撮られている、という仮説。そうした視点に立ったとき、われわれは一つの映画のタイトルを想起するかもしれない。『トゥルーマン・ショー』を。

 『トゥルーマン』もまた、画面の向こうの「理想の生活」を取り扱った映画だった。アメリカ・サバービア(郊外)のユートピア性。無時間的な現実の楽園、という幻想を、テレビメディアにおいて仮構するこの映画は、ある〈内〉──すべてが統御されたディストピアからの脱出を志向するつとめてハリウッド・アクション的なものであると同時に、われわれと「作品」の距離についての映画でもあった。

 編纂された理想。ここではないどこかにある(かもしれない)理想。希望。その幻想によって生きる人々もまた、この映画においては描き出される。そしてそれは、取りも直さずわれわれの位置でもある。われわれはトゥルーマンではない。人生を計画された哀れなコメディアンではない。われわれはわれわれである。一人称複数形的なまなざしによって、ある作品を最終的に完成させる一つの主体であるにすぎない。

 ヘスの生活もまた、そのように構成されたものだった、とは言えないか。ある理想として、市民のまなざしに絶えず自己規定されたものとしてある、とは。

 無論、映画終盤において、ルドルフはアウシュヴィッツから離れることになる。選択可能ではないが、否応なく移動することはある。分かちがたさが、ここでは裂開している。それをどう解するべきだろうか。

 幼児の声。鑑賞者はふとそれを聞く。

 「音響」はこの映画において重要なファクターであり、それを信頼することによって鑑賞者は常に隠蔽され画面から逃れ去る「壁」の向こうを垣間見る(=聴く)ことを求められるのだが、「こちら」側の音響もまた重要なものとしてある。そして「こちら」を貫いているものこそが、幼児の声だった。

 ゆりかごから、幼児は叫喚をほとばしらせる。それは呼び求める声であり、放埓な生命の表明であり、そうしたすべてから超越した根源的な「なにか」である。未成熟、という言葉で片づけるにはあまりに根源的なその存在様式は、ただちに、われわれを、われわれ自身の生の否応なさ、激しさへと立ち返らせる。

 幼児の声によって、ヘートヴィヒは「こちら」へと引き戻される。壁の向こうの銃声と叫び声は、その根源的な声のレイヤーを覆うノイズになり、意識からは剥離していく。そしてそこにこそ、この映画の最も恐ろしい部分がある。

 ただ生きているということ。生命のすべてを、誰かに委ねなければ生きてゆけないということ。あるいは、常にそれへ応答する責任を負っている(無論、映画中においては「負わされている」のだが)こと。そうした根源的で存在論的なすべてが、ある虐殺と並置可能なものとしてあるという恐怖。われわれの生命が、絶滅的な大破局と拮抗するものでなしにはありえないという根源的な恐怖が、ここにはある。

 幼児は泣き続ける。それ以外を知らないから、あるいは、そうしなければ生きてゆけないから。その存在様式は、取りも直さずわれわれの生そのものである。われわれが忘却し、隠蔽したもの。それでもなお、生の基底にいつまでもありつづけるもの。生の殺伐さ。窃視と透徹の果てに、この映画が描き出すのは、そのような現実に他ならない。

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