【コラム】ブログカルチャーと人文学についての雑感

 ブログカルチャーのゆくえについて考えている。あるいは、かつて存在した(と思われる)ブログカルチャーが胚胎していた可能性を。

 既存の流通ネットワークのオルタナティヴとしてのブログ。商業出版の世界からは立ち上がりようもない言葉を掬い上げ、しかるべき場所・
人に配送するシステム。そう書いたとき、われわれは東浩紀の名を思い起こすかもしれない。網状言論・波状言論。彼とその追想者たちが行っていた活動。そこに累積しているテクストの大半は、すでに読むことの困難なものとしてあるが、それは、今やその不在によって批評的契機をわれわれにもたらしているように見える。すなわち、追懐ノスタルジーの対象として。

 ところで、幸村燕氏によれば、ゼロ年代における東浩紀の批評活動は、イギリスの思想家であり、あるムーブメントの中心的人物として知られるマーク・フィッシャーのそれと奇妙な相関を持っているという(幸村燕『ポストモダンという可能性の条件、あるいはその不可能性の中心』)。

 マーク・フィッシャー。『資本主義リアリズム』。CCRU。加速主義。矢継ぎ早にいくつかの言葉が浮かぶ。それらの間に強固な連関があるかは寡聞にして知らない。しかし確かなのは、それが1995年以降のインターネット環境において発生したムーブメントであり、常にある種のオルタナティヴを思考/志向していたものであるということだ。そしてその記述は、その輪郭は、ブログであったはずだ。

 いささか時系列がねじれた記述にはなるが、ブログの特徴はその文字数制限のなさによってしるしづけられる。それは「非意味的な有限性」(千葉雅也『ツイッター哲学』)をもつ、文字メディアとしての新興のSNSとは明確に異なる。はてなブログが自動的に語をタグ付けすることに象徴されているように、ブログは無数の文脈に貫かれている。文脈。相互参照によって形作られるそれから、一つの言論が析出される。語が語を、その歴史性と共同性によって根拠づける精緻な体系(テクスト)が出現する。そのありかたは人文学的(な営みに最適化されている)と言うこともできるかもしれない、と誰かが言っていたのを、ふと思い出す。

 ブログは今や追懐ノスタルジーの対象だ。音楽やファッションにおけるY2Kリバイバルがそうであるように、打ち捨てられた過去が、肥大した幻想となって、虚ろな存在様式としてわれわれの(=ゼロ年代を体感していない世代の)前に立ち現れている。インターネットにおける世代間断絶。それがしばしばヒステリックに言明されるのは、デジタルの永遠性という幻想がまだ有力であるためか、あるいは……。

 とはいえ、そのテクスト──ブログという「制度」に貫かれたテクスト──を、われわれは読むことができる。そこに断絶はない。『卒業式まで死にません』も『八本脚の蝶』も、たしかな実在としていま・ここにある。無論、それは切り捨てられた無数の残骸の上に、辛うじて残ったある文化の先端なのだろうが、重要なのはその実在が、追懐というものの聖性を削ぐうえで有効に機能するという点である。

 だからテン年代の半ばになって伊藤計劃のブログが公刊されたことは、それ自体一つの聖性の解体として機能したのではないか。

 なるほどそれはゼロ年代の原風景をこちらに提示する。しかしテクストがテクストであることによって──一つのパッケージとして成立していることによって──それは追懐に対する一つのカウンターとして機能していたのではなかったか。

 聖性が削がれた後の言葉。追懐が停止した後の言葉。そこで改めて「制度」自体が問題となる。すなわち、滅びつつある「ブログ」という形式が。

 「ブログ」が滅びつつあるのか、ということには疑問が残らないではない(こう書いてしまうのは、なにか不遜な気もするが……)。この記事が投稿されるnoteは一つの文化としてたしかな基盤をもっているかに見えるし、『闇の自己啓発』の刊行はそうした文化の臨界点であったと言えるはずだ。そもそも、「伊藤計劃以後」の早川書房はネットカルチャー的なもの──本来商業出版のオルタナティヴとしての性格を有していたはずのものたち──を拾い上げることでしばしば自らをレーベルとして成り立たせてきたのではなかったか。『最後にして最初のアイドル』を見出し、「月と怪物」(『百合SFアンソロジー』)を見出し、そして……。私見による素描であるため語り落としは多いだろうが、そうした傾向があったことは確かであるように思う。

 しかし個人と直結した(発信)メディアの趨勢を見れば──つまり「大局的」に見れば──やはりブログは衰退しているのだろう。それもまた間違いないはずだ。そしてこの衰退は、ある隆盛を導き出している。ツイッター。いまなお、われわれはそれについて思考する必要がある。あるいは、その想像力の伝播と行く先を。ブログカルチャーとの差異を。

 正直に白状すれば、ここで自分の問題意識(批判的なニュアンスはない)の核となっているのはこのツイートである。

 「1行アキ」。空行。ハーメルンで二次創作を書いていた頃からある種のマナーとして用いてきたそれが、人文書にも見られるということ。インターネットの想像力の、その伝播──。それを考える必要性に、ふとかられる。

 空行の使用は、ここ10年ほどのラノベではそれなりに見られたものであったように思う。ネット小説を編集し刊行する、ラノベ・レーベルの生存戦略の中で使用されたページの組み方としてそれはあったはずだ。三木一馬は用いなかったが(だから『魔法科』や『SAO』は(後者はそもそも新人賞のために書かれたものではあったけれど)「ネット小説」としては見出されにくい)、その手法は拡散していたはずだ。そしてそれは直接的に関係のない部分にも浸透していて、例えば『ノーゲーム・ノーライフ』は空行を用いていたと記憶している。

 閑話休題。人文書、ということで言えば、一にも二にも北出栞『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ』を挙げるべきだろう。

 無論、ブログカルチャー/ツイッターカルチャーの対立軸を想定するならば、それは前者に属するような気もする。しかし本書の胚胎する言説は、しばしば後者の想像力と響き合っていた。

 「繋がらないはずのものが繋がってしまうこと」。それは新海誠などの映像作家を評する文脈で持ち出されたイメージだが、断片の散在と接続、という構図はつとめてツイッター的である。ツイッターをまとまりのある言論として見出すまなざしの中で、つながらないはずのものはつながっていく。

 それを自覚的に用いた例として、先にも引いた千葉雅也『ツイッター哲学』は存在していた。巻末のあとがきにおいて端的に示されているように、本書は「新しい順序、見出し、余白、表紙など、造本によって過去のツイートに新しい『作動配列 agencement』(ドゥルーズ&ガタリの概念)を与え」たものであった。それは「文章ではなく、配列・リズムを『書いた』」ものとして、ある。

 しかしここにおいて、本は千葉氏の言葉でいえば「仮固定」的な、柔軟性を備えた輪郭をもった実体として見出されていた。「非意味的な有限性」──140字、という、われわれにとって本質的な意味を持たない制限──はツイッターというシステムに属するものであり、個々のツイート(断片)に属するものだった。その強固な、単なる輪郭を受け入れること。そのうえで、改めて物語化という全体論的な秩序と対峙すること(あるいは、それを回避すること)。ここで志向されていたのは、そのようなものであったように思う。

 ひるがえって北出氏の著書もまた、そうした個々のツイートの強固な輪郭に言及していた。最果タヒのツイートが異質な「矩形」そのものとして立ち現れ、タイムラインに切れ目を入れるものとして機能すること。

 それが「接続」という結果にたどり着くかは定かではない。すべては未定のままに留め置かれている。そしてそれは、ツイッターカルチャーの行く先についても同じことがいえるはずだ。

 『ツイッター哲学』は物語化に、既存の「配列」に逃走線を引く一つの実践だった。しかしこの先に立ち現れるツイッターカルチャーの想像力に依拠した著作は、それとはまったく別のかたちになるのではないだろうか。無論その予測に根拠はない。それは祈りのようなもので、失われた未来を思い続ける、絶対的な不可能性の横溢する現実への逃避にも似て──。

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