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【リスト】城輪アズサ・文フリ東京38寄稿一覧

 タイトルにあるように、5/19に東京流通センターで開催される文学フリマ東京38に際して、僕(城輪アズサ)が、いくつかの批評同人誌に寄稿した原稿を紹介していきます。ライトノベル、アニメ、少年漫画……。10代のころに触れていたコンテンツを中心に、幅広く書かせていただきました。

 神戸在住者ゆえ(というか、学生特有の金欠のゆえ)今回当日の参加はできないのですが、行かれる方のご参考になればと思います。


「なぜアニメ『アンデッドアンラック』はシャフト演出を用いたのか?──ジャンプ作品とテン年代表象文化について」(もにも~ど『もにも~ど2』)

 あにもに(@animmony)さんによる「もにも~ど」の新刊『もにも~ど2』所収の原稿。シャフト関連スタッフが参加したテレビアニメ『アンデッドアンラック』について論じたものです。

 週刊少年ジャンプと新伝奇・ゼロ年代的想像力の交わりを整理しつつ、その文脈からテン年代~20年代におけるシャフト・アニメーションの文化的背景に関する一風変わった図式を提示し、少年漫画であると同時に、「シャフト演出」との高い親和性をもつ『アンデッドアンラック』の特質を明らかにする……というようなことを目的としていました。

 まとまった論考を書くのが初めてだったこともあり、拙い部分も多かったのですが、主宰あにもにさんのめちゃくちゃ真摯な推敲によりそれなり以上のレベルの論考に仕上がっていると思います。

「インターフェース・ネオテニー──『ユア・フォルマ』、ライトノベルの近未来における成熟と喪失」(試作派『モノローグ』『ダイアローグ』)

 「敷居の低い批評・エッセイの同人サークル」試作派(@prototype_pub)による同人誌二種に収録される予定の原稿。初稿をそのまま掲載するコピー本『モノローグ』と、校正・推敲を済ませた原稿を掲載する製本『ダイアローグ』の二種に、同一の原稿が掲載されています。電撃文庫から刊行されている、菊石まれほによるライトノベル『ユア・フォルマ』について論じたものです。

 ライトノベル──とりわけ、電撃文庫のそれ──は、少年少女を物語の中核に据えるような、ある種のSF的想像力との間に親和性をもつ、という観点から、『ユア・フォルマ』を分析しています。江藤淳『成熟と喪失』によせて大塚英志が記した成熟論『「ツルリとしたもの」と妻の崩壊」および、伊藤計劃が『虐殺器官』において主題として取り入れたような「成熟の疎外」といった論点から、『ユア・フォルマ』における成熟の位相を探る、といった内容になっています。

 2017年の『86-エイティシックス-』登場以後の電撃文庫ライトノベルは、その存在感や主題の切実さに反して語りが少ない(というか、ライトノベルに対する語り自体が少ない)と感じてきたので、思いを同じくする人にはおすすめな論考になっているはずです、多分……。あと、掲載同人誌自体が、そうしたニッチな視点を掬い上げることを目的としているため、その点でもおすすめの一冊です。

「箱の中の水星──『水星の魔女』とテン年代ジュヴナイル・アニメーションの系譜」(『ブラインド』)

 砂糖まど(@mado_014)さんによるアニメ批評同人誌『ブラインド』所収の原稿。『水星の魔女』およびコンテンツとしての『機動戦士ガンダム』について論じています。

 前島賢氏が指摘したように(『僕をオタクにしてくれなかった岡田斗司夫へ』)、『ガンダム』は長く、ある世代のオタクのアイデンティティーと直結するような、それ自体時の止まった、露悪的に言えば「年老いた」コンテンツとして解されてきました。しかしそうではないのではないか。ガンダムの、「子ども向けアニメジュヴナイル・アニメーション」としての性格は、テン年代においても健在なのではないか。だとすれば、それはいかにしてか──? そうした論点から、改めて最新のガンダムとしての『水星の魔女』に接近しつつ、広く文化論的な批評を展開することを目的としています。

 世代論としての『水星の魔女』という視点が中核にあるため、現在の20代、ゼロ年代前半の生まれの人には必見です。なお、同誌は『水星の魔女』のほか、『グリッドマン』についても特集しています。

「刻印された物語たちのために──『86―エイティシックス―』と「条文」をめぐる文芸試論」(メルキド出版『net stones』)

 メルキド出版(@ngz55)さんによる批評サイト「net stones」所収の原稿をコピー本として編纂した『net stones』収録の原稿。『86 -エイティックス』といくつかの文芸作品について論じています。

 安里アサトによるライトノベル『86 -エイティシックス-』を中心に据え、広く「記録すること」(=刻むこと)について考察しつつ、それを可能にする(相対的に「古い」)メディアの問題に立ち入った論考になっています。

 初稿は、この名義では初めて外部において公開した論考になります。拙いところも多いかもしれませんが、ぜひ……

「ロードサイド・クロスリアリティの消失」(藤井佯『沈んだ名 故郷喪失アンソロジー』)

 藤井佯(@hitohitsuji)さんによるアンソロジー『沈んだ名 故郷喪失アンソロジー』に収録されている原稿です。今回の文学フリマでは委託販売がされるほか、5月末からは各種書店で取り扱われるとのことです。少年期の体験について綴ったエッセーになります。

 四国山脈のむこうがわ、高知の地方都市──いわゆる「ファスト風土」のロードサイドにかつて・確かに存在していたはずの複合現実クロスリアリティ的な風景の喪失と、それに対するノスタルジーについて書いています。とかく「貧しさ」や「均一性」によって語られがちなファスト風土ですが、そこには確かに詩情があり、交換可能ではあるけれども、それゆえに個人にとっては無二の経験があったはずで……というような思いがそのままに乗っています。

 このエッセーに限らず、同誌には多くの「故郷喪失」についてのテクストが掲載されています。それぞれの切実さがたしかな存在感を伴って同居している珠玉の一冊に仕上がっているはずなので、「故郷喪失」という字面にピンときた方はぜひともお求めください。

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