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【インタビュー】大好きだよ、安心して、大丈夫。だから私は私の人生を生きる!-障がいのある両親のもとに生まれたひろみさんの話-


はじめに

 みなさんはリプロダクティブヘルス/ライツという言葉をご存知でしょうか?これは1994年にカイロで開催された国際人口開発会議において提唱された概念で、性と生殖に関する健康と権利です。

 リプロダクティブヘルスとは性や子どもを産むことについて、身体的にも精神的にも社会的にも本人の意思が尊重され、自分らしく生きられるということです。 
 リプロダクティブライツとは、自分の生殖について自分で決められる権利のことです。(子どもを産むか産まないか、何人の子どもを持つか、何歳差で産むかなど)そして、これらはそのための情報を得る権利を保障するものでもあるのです。つまり、障がいのある人が産み育てるかどうかを自ら判断するための情報が、今、必要です。

 障がいを持ちながら産み育てる権利が叫ばれつつあり、障がいを持ちながら生み育てること・親になることを選ぶ障がいのある人たちが今、増え始めています。それと同時に、障がいのある両親に育てられる子どもの立場は一体どうなるのか?という声や、ヤングケアラーを懸念する声も多く聞こえてくるようになりました。

 障がいを持つ人たちの中からも「自分が原因で子どもがいじめられるかもしれないから産めない」「自分のことで辛い思いをさせてしまったら…」など不安の声は今も昔も変わらず聞こえてきます。

 今回、私たちは障がいのあるご両親の元に育った女性にお話を伺うことができました。「障がいのある親である前に、私の親なんです。」と語る彼女が、どう感じながら生きてこられたのかという貴重な体験を聞かせてくださいました。
 この記事は、今、障がいを持ちながら育児をされている親御さん、子どもを持つか悩んでいる障がいのある方々、また、育児されてるすべての方に読んでいただきたいです。

※優生思想が良しとされ、障がいを負えばその責任はすべて個人に委ねられた時代がありました。障がいに対する社会の理解の目も冷たく、トイレも駐車場もエレベーターもほとんどない。障がいを持てば、健常な体に近づくために必死に訓練するか、家族親族の世話になるしかない。障がいのある人が使える制度も道具も、今より遥かに少なかった。でも1981年の国際障害者年を境に、少し空気が変わり始めた。そんな1980年代という時代背景をご理解の上、ご覧下さい。

時間のない方に3分でわかるまとめ

・脳性麻痺で右麻痺の父と手術の後遺症で視力障害・下肢麻痺のある母の元に2人姉妹の次女として生まれたひろみさん。両親は大変な姿を子どもにみせず、悟らせず、気づかせることもなく、不自由なく育ててくれました。

・障がいを特別だと思う感覚はなかったものの、周囲の反応により徐々に意識せざるを得なくなっていきました。思春期には注目されたくないという思いから、両親が参観日に来ることが嫌だったと言います。

・それでも両親は旅行や習い事のサポートなど、できうる限りのことをしてくれ、授産施設(当時)の少ない工賃などから不自由なく育ててもらいました。それは周りが思うほど特殊で特別な家庭ではありませんでした。

・当時の障がい者の抑圧された環境の影響でか、自身の障がいに対し悲観的な母との間には、依存関係や確執が生まれてしまいました。10歳で障がいを負った母の人生を思えば十分理解はできるものの、それは今もひろみさんと母の間に厚い壁となり立ちはだかっています。

・親の介助を担うことに対する周りや母自身からの期待の声、親に障がいがあることを可哀想だと決めつける周りの声を聞くたびに、親の人生と自分の人生は別なのにと、その声自体を負担に感じています。

・ですが、両親が数々の反対を押し切りってくれたからこそ、今私がここにいる。愛されていると実感できると言います。だからこそ母には、そしてこれから親になるかもしれない人たちには「大好きだよ、安心して、大丈夫。」と伝えたいというひろみさんなのでした。

私の両親のこと


父母と古希のお祝い

 私の父は4歳の時に高熱を出し、右半身と言語に障がいが残りました。一般の学校を卒業し左足用に改造した車で運転免許も取得しました。一般就労はなかなかうまく行かず、住居完備の障がい者就労施設(当時は授産施設)ができたと知り利用するようになりました。(父は現在の就労継続支援A型を利用)

 母は10歳で虫垂炎の手術後に腸閉塞となり、再手術を受けました。その術中に視神経と下半身神経を損傷したそうです。目が覚めた時には視力がほぼなく、立てない歩けない状態にだったそうです。母はショックのあまり1年間学校に行けず、訪ねてきた同級生と会うことも拒否していました。
 1年遅れで養護学校(現特別支援学校)に編入し、入所により家族と離れ離れの生活を余儀なくされました。
 高校卒業後はパソコンの仕事をするという夢があり、東京に見学に行ったものの、当時はまだバリアフリーが進んでいませんでした。バスにも乗れず、通勤は不可能。環境によって夢を断念せざるを得ませんでした。
 そして父のいた障がい者施設(当時授産施設)を利用することになり、2人は出会いました。
(母は父とは違い、現在の就労継続支援B型です)

就労継続支援A型、B型って?

障害者総合支援法における就労系障害福祉サービスには、就労移行支援、就労継続支援A型、就労継続支援B型の4種類のサービスがあります。

就労継続支援A型
一般企業に雇用されることが困難であって、雇用契約に基づく就労が可能である者に対して、雇用契約の締結等による就労の機会の提供及び生産活動の機会の提供を行います。

就労継続支援B型
一般企業に雇用されることが困難であって、雇用契約に基づく就労が困難である者に対して、就労の機会の提供及び生産活動の機会の提供を行います。

厚生労働省ホームページより引用

ふたりの娘として生まれて

お茶目な母娘

 私はそんな両親のもとに2人姉妹の次女として誕生しました。
短大を卒業後に食品会社に入職し、それからエステ業界に移り、両親が利用していた障がい者施設で生活支援員も経験しました。その後、看護学校に入り看護師免許を取得。重度知的障がい者入所施設や重症心身障がい児デイサービスでの看護師を経て、現在は障がい者雇用のコンサルタント業務、障がい児支援をするためフリーに転身しました。

 母に「なんでお母さんは歩けないの?練習したら歩ける?」と聞いていた記憶はありますが、周りと違うという意識はあまりありませんでした。

 母は歩けないし、車椅子に乗っていましたから障がいがあることはわかっていましたが、父は歩けたので障がいがあるという意識があまりなく、「えっ、父さんも障がい者なん?」と思ったことがあったような気がします。だから周りの親とは違っているとは全く思いませんでした。
 障がいのある親である前に、私にとっては親でしかありません。"障がいのある両親"ではなく”私の両親”なのです。親である前に”障がい者である”とみられることや、母自身がそう思っていることをとても疑問に感じています。私にはそれが苦しくて、ずっと闘っています。

 両親は障がい者施設で仕事をしていましたが、私にはその環境が当たり前だったので、健常者/障がい者という区別もありませんでした。
 当時は職員や利用者の子どもも共に施設の行事に参加していました。職員として働いている同級生の親もいて、あまり特別な場という感覚はありませんでした。両親以外の障がいのある方を見ても、周りに障がいのある人がたくさんいる環境だったため、何の違和感もありませんでした。

成長とともに


母と野球観戦

 小さい頃はそうしてあまり違いを意識することなく過ごしましたが、
小学校の入学式で両親を見た上級生が連日質問してくるようになり、周りと違うということを意識せざるを得なくなったように思います。

 小学生の時に母の給料明細を見たことがありました。子どもながらに納得が行きませんでした。
「なんで毎日8時半から17時まで働いているのに4万円しかないの?!おかしいって!!」 
 そう両親に文句を言いました。当時はまだ、障がい者雇用についてよくわかっていませんでした。父は就労継続支援A型だったのでもう少し賃金は多かったのですが、両親の就労形態の違いも知らず、同じ時間に仕事に行って帰ってきてるのに、なぜそんなに給料に差があるのか理解できず、納得がいかなかったですね。障がい年金の存在も知らなかったので、大人になるまではどうやってあの給料でやりくりしてたんだろうと経済面の謎が多かったです。

 両親が就労していた施設が街にあったからか、障がい者がたくさん町にいる環境で生まれ育ちました。なのであまり周りも違和感や偏見がなかったのかもしれません。小学校、中学校、高校でも、その施設に見学や職場体験、運動会交流、夏祭り、行事等の関わりもありました。

 もしかすると別の地で生まれ育っていたら、また違ったかもしれません。

負担に感じる言葉や態度

「親を助けてあげてね」「えらいね」は小さい頃からずっと、いまだに言われています。一生言われ続ける言葉だと思います。周りの人や祖父母からも言われていました。それと同時に、可哀想と言う人もいます。

 どちらの言葉も私には負担です。

 親の親の人生は親のもの、私の人生は私のものです。なぜ私が親の人生まで請け負わなければならないのかという気持ちになります。
 昔は親が障がい者ということがすごく嫌な時期はありました。ですが、可哀想と思うことはあったのか…いや、なかったような。その程度です。少なくとも今現在は、障がいがある両親を私は可哀想と思わないです。

 両親の介助も幼い頃から、今もなお、そして今後も続きます。親の介助を当たり前のように言われるのは受け入れ難いですし、喧嘩した際に母から「何のために産んだと思っとるん」「介護したくないから家を出たいんでしょ」など言われた際には、私がすること前提で生活しようとしていることが、私の人生を思ってくれていないと感じました。

 ですがそれしか生きる術がない環境に障がいがある親が置かれてきたということも理解しているので、親が置かれてきた社会環境との間で、私は板挟み状態です。

幼少期のこと

 姉は生まれてすぐ、母方の祖父母に引き取られ育られていました。しかし両親は自分たちの子どもなのに自分たちで育てられないのはおかしいと何度も話し合い、姉が生後2ヶ月になった頃、ようやく祖父母の元から両親に引き渡されたそうです。それからは母方の祖母が定期的に手伝いにきたり、障がい者施設の職員が姉をお風呂に入れてくれたり、ご飯を食べさせたりしてくれていたそうです。
 私の時は、私が生まれて1週間は両祖母が来て手伝ってくれていたのだとか。姉の時同様に施設職員がお風呂やご飯を手伝ってくれていたそうです。私が生まれる2年ほど前に平屋を建て、家族4人でそこで暮らしてきました。

 両親が原因でいじめられた記憶はありません。ですが5歳の時に保育園に迎えに来た父を見て年下の男の子が父を「化け物だ」と言ったことは今も忘れられずにいます。色んな目で見られたり、質問されることは多くありました。注目を浴びるのが嫌で私は授業参観等、学校に来てほしくないと思っていました。
 運動会のリレーや親子競技は姉に出て欲しくてよく頼み込みました。周りに迷惑を掛けたくなかったし、目立ちますから。父には難しい競技は先生が出てくださることもありましたが、父はできるだけ出てくれようとしていました。

 私は小学3年生から高校2年生までバレーボールをしていましたが、おそらく母は私のバレーボール姿を見たことはありません。試合に来るのは基本父でした。姉の発表会なども見に行くのは父です。非バリアフリーな所は基本家族では行かないか、母以外と行く場所でした。母に見て欲しいと思う反面、どうせ見えないし、周りに気を遣わせるしなと思っていました。
 家族で遊園地にも行きますが、乗り物は父や姉と乗っていました。母と乗りたいという発想がそもそも当時はなく、母は乗れないものだと思っていました。今は一緒に乗りたい、乗せてあげたい、何でも経験させてあげたいという気持にちに変わってきました。
 自転車の練習は家の裏で父や幼馴染としていました。習い事は徒歩で行ける範囲が多く、徒歩や自転車、雨の時は父が迎えに来てくれていました。

周りが思うほど特別ではない

何でも相談できる父と娘

 私にとっては両親に障がいがあることが当たり前です。障がいのない両親が想像できません。何度も何度も何度も両親が障がい者でなかったらと思ったり、想像したりしてみました。でもイメージがつきません。だから、周りから特別な目で見られて、あれこれ言われることに違和感しかありませんでした。みんなと特に何も変わらないのにと。

 両親には、何不自由なく育ててもらいました。やりたい習い事は全部させてもらい、欲しいもの食べたいものは与えてもらい、旅行も父が運転できる範囲の距離で色んなところに行っていました。今振り返ると贅沢に育ててもらったなと思います。

周りが思うほど、何も変わらないんです。

悩みを共有する場

 成人してから姉と親について話す機会がありましたが、姉とは今は両親について真剣に向き合うような話はしていません。姉は両親をいいように思ってないのと、自分の生活に精一杯なんです。両親のことは独身の私に、任せたいと思っていることでしょう。
 同じ境遇の幼馴染とよく、障がいのある親の元に生まれ育ったものならではの話をします。幼馴染には兄弟もいないので、相談を受けることもありました。「彼氏ができたらどのタイミングで相手に言っているのか?」など。私たちにしかわからない、通じない話もたくさんあります。
 ですが自分の両親が障がい者だからと言って相談相手が限られてるとは思っていません。友達や彼氏などにも、よく母の愚痴を言っています。なかなか他の親子間ではないやりとりの内容なので、「大変だね」とよく言われます。そんな時は周りのみんなはこんな悩みがないのだから、いいなと思うこともあります。

大人になった今だからわかったこと

どこにでも母を連れて行ってあげたい

 両親が2人の子どもを育てることは、どれほど大変なことだったか…。当時それを子どもにみせず、悟らせず、気づかせることもなく育ててくれたことは、本当に尊敬しかありません。何不自由なく育ててもらいました。
 両親から大変だったと後から聞きましたが、子どもの頃の私はその大変さを全く感じませんでした。あちこちから色んなことを言われてきたと思います。色んな反対や偏見の目、差別、困難、そうしたものの全てに、耐えて耐えて耐えてきたのだと思います。

 今両親に当時のことを聞くと、昨日のことのようにスラスラと話してくれるんです。それほど必死で大変だったのだろうとひしひしと伝わってきます。「反対反対反対」の中を押し切ってくれたからこそ、今私がこうして存在しています。感謝しかありません。本当に感謝です。

 父に言われたことがあります。

「親に反対されて諦める程度のことなら諦めてしまえ。どんなに反対されても自分がこれで、この人で幸せになると強く思うならそうしろ。突き進め。親は反対したとしても、子どもが幸せならそれが1番幸せなんだから。」

 父はそうして周囲の反対を押し切り、自分を、母を、信じて突き進んだ結果、今の幸せを手にしたんだなと感じました。私は人生で何か転機になるような時は父に相談します。父は冷静に受け止めて判断してくれるからです。父は道を指し示してくれます。幸せとは結果論です。そして自分次第です。それを改めて教えてもらったような気がします。

両親との生活から学んだこと

野球観戦する2人

 障がいのある親元に生まれて私が得たものは、当たり前や普通を疑うことです。何から見て当たり前なのか、普通なのか。果たしてそれは全員がそうなのか、そうではないよね?人それぞれ当たり前や普通があるよね?という考え方です。

 ”みんなと一緒”というのがあまり得意ではなく、人と違うことを好んだり選んだりしてしまいます。

 両親が障がい者というあまり"一般的"ではない生育環境は、私の人生選択の仕方に大きく影響していると思っています。

 自分の人生についてよく考えさせられます。私は両親が喜ぶことをしたいと思うことが多いです。そして、誰かの役に立ちたいです。障がい者が特別とは思っていません。障がいがあるからと言って特別扱いされることにこそ、違和感があります。

「私の人生の主人公は私!」障害のある両親に産み育てられた私が伝えたいこと

お母さん、大好きだよ、安心して!大丈夫。

 障がいを持つ人たち、障がいを持ちながら親になろうとしている人たち、障がいを持つ人の子どもたち、そしてみなさんに私が伝えたいことは、です。

 本当は母に一番届いて欲しい思いです。

 母は子どもの頃に障がいを負い、家族と暮らすことができない環境になりました。まだ10歳の子どもがある日突然障がいを負い、今までの日常を失いました。親や家族と離れざるを得ませんでした。昔のことですから、周りからも色々と言われていたのでしょう。やりたいことも環境が許さず叶いませんでした。そんな母は不安からか“家族”にすごく執着し、依存的です。特に私に対しては。自分の人生と私の人生の境目がきっとわからないのでしょうね。

 "障がい者の母"ではなく"母"なのに、母はどうしても「障がい者じゃけぇ」と障がいに囚われるのです。娘だから時にはそんな言葉にイライラもします。都合のいいときだけ「障がい者扱いをしろ」、都合が悪いと「障がい者扱いはするな」、すぐに「どうせ障がい者だから嫌いなんだろ」と突っかかってくる母の態度にはうんざりすることも多々ありますが、

「大好きだよ、安心して、大丈夫。」

 母にはこの言葉を何十年とかけて伝えても伝わりません。受け入れてもらえません。それほど障がいを負ったこれまでの人生で、打ち砕かれ、心に負った傷が深いのです。障がい者になったその日から、心に何か大きなものを抱えて生きているのです。子どもの頃にできた傷は、すぐさま対処しないと一生引きずります。どの立場の人も何かしら傷を負うことがあります。それは親でも子でもです。その時にすぐ傷ついたことに気づいて「大丈夫だよ」「大好きだよ」「安心して」と言ってくれる存在が必要だと感じています。これは私にどうこうできる問題ではなく、母自身が向き合わなければならないのでしょう。

 こうした経験から、私のモットーは「私の人生の主人公は私」なんです。だから私は私の人生を生きて行くし、だれもがそうであれる社会であれと願っています。
 そしてみなが助け合える、支え合える社会を望んでいます。
その一歩として、そんな誰かの何かの役に立ちたくて、存在になりたくて、両親のことをSNSに綴っています。

 みな1人じゃないです。大丈夫。1人で抱え込まないで。

まとめ

 バリアフリーが整わず車椅子では外出もままならない。障がいを持つと様々な機会を奪われ、周りの理解もなく、制度上も措置の対象だった1980年代。選ぶことのできない支援。優生保護法下で、障がい者が結婚なんて!子どもを産むなんて!と、誰もが不可能だと反対した時代。
 共に障がいを持つ男女が傷を負いながらも、周囲の目や声、数多くの反対を押し切り結婚し、そして2人のお子さんを育て上げるご苦労は並大抵のものではなかったと想像に難くありません。
 母の傷は後に娘との確執となり、今もひろみさんとお母さんの間に棘として深く刺さり続けています。それでも逆境を覆すように産み育てられた自分は深く愛されているのだと大人になった今だから、深く感じるとひろみさんは語ります。

 「私、母の作るコロッケがどこのより好きなんです。でも、母は結婚当初料理ができなかったと父が教えてくれてびっくりしました。私が生まれた時には当たり前に母が作ってくれていたから。でも目も見えないし施設で暮らしていたから、結婚するまで料理を習う機会なんてなく、作れなくて当然なんだよと父が教えてくれたんです。必死に奥さんになろう!お母さんになろう!と努力したんだな、頑張ったんだなと思ったんです。」

 ひろみさんは現在、助け合い支え合える社会の実現を目指し、ご両親のことを綴るInstagramを始めとし、様々な活動をされています。

ひろみさんのInstagramはこちら

※今回の記事は、ひろみさんのご意向で"障害"と書かず、意図的に"障がい"と平仮名表記を使っています。

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この記事を書いた人:

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