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【短編】漂流

割れるような拍手と歓声の中、俺は目を瞑っていた。
 舞台の上で受ける拍手。うずくまり涙を流す俺に、仲間は一発叩いてくれたおかげで、なんとか列に戻り、挨拶を済ませることができた。

 小さな地方の劇場でありながら、俺を含めて、仲間達の熱意は決して弱くはなかった。俺たちは普段小さなアマチュア演劇をしている。それが今回、大きな作品に挑戦しようという提案が上がり、都市のプロ劇団が取り組むような演目に挑戦することになった。俺は主役に抜擢され、前日までその膨大な台詞と演技に打ちのめされていた。
 俺は演劇で飯を食っているわけではない。普段はしがないカフェバーで働いている。とは言ってもおしゃれなものではない。料理もそこそこで、ほとんど居酒屋と変わらないようなものだ。酒も大したものは置いていない。それでもこんな田舎では、カフェバーなどと言えるのだ。

 俺の本番の朝は早い。慣れた手つきで準備をして家を出た。その時ふと、不在票が届いているのに気がついた。小包が昨日届くのを忘れていた。俺は書き置きをした。「申し訳ないですが、荷物は向かいの通りを少し北に行ったカフェバーに置いておいてください。私の職場です。」
 書くときに、カフェバーとは一言の単語なのかどうか、今まで考えたこともなかったが、ふと疑問に思った。俺は間に「&」と書いた後、やっぱりそれを二重線で消した。

 その日の打ち上げはおそらく賑やかなものだった。俺はその日まで禁酒すると言っていてその通りにしていたし、全員がその日のために頑張っていたのだ。OBOGや、他の劇団の指導者や役者も見に来てくれて大盛況だった。俺の家族も来てくれた。家族は演劇を見た後、俺の仲間たちと打ち上げに参加してくれた。俺は家族を連れて行った後、みんなに彼らを紹介した。それから兄弟にだけ理由を打ち明けてその場を後にした。OBOGたちには挨拶をして、本当に来てくれてありがとう、酒の席につけなくてすまないと伝えた。

 俺はその家の前に着くと鍵を取り出してあけ、中に入った。少し散らかっていたので片付けをした。その後、冷蔵庫の中にある食材を確認した。生モノなどは全て処分してしまった。それから、食器は食器棚へ、本は本棚へ、服はクローゼットへと戻した。テレビのコンセントを抜いて、ガス栓を閉めた後、ブレーカーを落とした。ふと思い出して、もう一度冷蔵庫に行き、中を確認して、冷蔵必須のものだけ段ボールに詰めておいた。缶の飲み物だけ、どうすべきか迷ったが、冷蔵庫の中に入れておいた。あとでそんなことをして何になるんだと思ったが、そのままにしておいた。そして手を洗った後に、またふと思って、トイレを掃除した。汚れた除菌シートを流した時、その渦をじっと見ていた。そのシートは水の流れにそって動き回され、最後には小さくなって、吸い込まれて、消えていった。最後に洗濯機の中を確認した。中には何もなかった。俺は洗濯機の水道の栓を閉めて最後に洗面台の鏡を拭いた。台所の水切り台だけは綺麗だった。台所には調理器具が一人暮らしにしては少し多いくらい置いてあった。そこだけはきちんと並べられていた。そしてもう一度家を出た。その時に鍵を閉めることは忘れなかった。忘れてもよかったかもしれない、と思った。

 家の外には川が流れていた。鴨川はここら一帯で1番長く大きい川だった。冬の河川は夏よりも少し小さく鋭い音がした。川ぞいに降りて行ってから下流に向けて歩き出した。歩いている途中、俺はずっと川の流れを見ていた。俺は今自分の足で歩いているのだろうか、という気分に駆られた。川の流れはまるで俺を流しているかのように、今の俺と同じスピードで流れていた。

 ここのコンビニ前の交差点はいつも人が少ない。ただ、橋と橋の間に位置しているということもあって、車の通りだけは多い。特に多くなるのは通勤時と、飲んだくれがタクシーで帰って行く午後9時過ぎ以降だという。2日前の午前10時ごろ、この交差点で一台の大型トラックと、バイクの衝突事故があった。とても大きな事故でたちまちこの街の全員がその事故を知るところとなった。トラックに乗っていた運転手はどうなったかは知らなかった。でも、おそらくそこまでのことにはならなかったはずだ。相手はバイクなのだ。トラックの運転手が死ぬくらいの事故だったとすれば、バイクの運転手は尚更のことだっただろう。ただ、一つ確実だったのはそのバイクの運転手はつい前日まで生きていたということだけだった。俺は交差点の歩道の電柱を具に確認した。そして、花束といくつかの飲み物が積み上げられている場所を確認した。

 俺はコンビニへと足を運ぶ。先程、冷蔵庫の中で見つけた缶の飲み物を買う。そして足早にそこを後にする。俺はもう一度電柱の前に行く。買った飲み物は暖かかった。あいつは暖かい方より冷たい方が好きだったかもしれない、と考える。それでも今はこんなに寒いんだから暖かいのでいいだろうと言い訳する。電柱の前に、他のものと同じようにそれをおいて、俺は手を合わせる。先週話した時のことが脳裏に浮かぶ。みんなと話しながら馬鹿みたいに、おれ、童貞ですから、と言っていたのをなぜか思い出す。そして、しゃがんでいた体を起こす。もう一度自分が買った缶を見つめる。どんな味がするんだろう、あれ、と考える。もう一度コンビニ入ってから買ってみてもいいかもしれないと、それがとても大切なことかもしれないと思う。でも結局俺はここに立っていて、生きている。あのコンビニの店員も、流石に俺の顔を覚えているだろう。やっぱり再び入るのはやめておこうという気になる。

 俺は来た道と逆の道を行きながら帰路に着く。自宅に着いた時、時計は夜の10時を過ぎたところだった。帰り道の途中、遠くの空で鼓を打つような振動が鳴るのを感じた。それは大気を伝わって俺の心臓を直接揺らした。二度も揺らされた。俺は振り返った。曇り、暗がりに包まれた空を俺は見上げていた。雷かと思ったのだ、だが誰もそこに積乱雲があるなどとは認めなかった。その振動がもたらした揺れは、今もこの心臓の中でこだましている。俺は、あいつの顔を思い浮かべると胸が痛くなった。振動は今にも大きくなる。どん、どん、と一つ一つの波も大きくなっていったのを感じる。家は散らかっている。冷蔵庫の中はパンパンだ。俺の家のブレーカーは住み始めてからこのかた一度も降ろされたことはないし、洗濯機の中にはさっき投げ入れたばかりの靴下が悪臭を放っていた。何かを食べようと気にはならなかった。

 どうしてあいつは死んだのだろう。ただ、漂うだけの生涯の中であいつは不運にも溺れて見えなくなってしまった。なぜだろう。でもそれは、俺がこんなにも漂い続けていることを問うことと何も変わらないのだろう。なぜ俺はただただ漂っているのだろう。俺は明日も目を覚まして、カフェバーにいき、飯を作り、食べ、寝る。来週には次の演目も決まるだろう。その本番は来年の3月ごろになるはずだ。俺は4月にはその劇団を卒業する。でもそれでも、俺の人生はまだ続いていく。5月以降のことなど俺にはわからない。トイレに行こうとして起き上がるが、やはりベッドに突っ伏した。トイレに行ったのはそれから1時間立った後だった。帰ってきてベッドに入った後、電話が鳴った。誰だろうか。こんな時間に。盛り上がった連中が、俺を冷やかしに電話をかけてきたのだろうか。それとも他の誰かだろうか。俺にはわからない。それが誰なのか知らない方がいいかもしれないとも思った。でも、俺は死んでいないし、その電話に気づいていないわけでもない。

 俺は諦めて電話を取った。

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