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【短編】空に顔を向けろ

 カフェに来て珈琲を飲むことは、映画館に来て映画を見るのと同じくらい普通のことである。しかし、映画館では誰もが間違いなく静かに映画を見るが、カフェでは、友人とのおしゃべりをする人々も、僕が珈琲を飲むことと同じくらいよく目にする。僕も友人とおしゃべりをカフェですることもある。ただ、自分が洋書を読んでいたり、なにか作業をしているときに、聞こえてくる話というのは実に滑稽で馬鹿馬鹿しいと思ってしまう。

 たとえば、今朝、こんなことがあった。モーニングのためにいつもより早く家を出て、家の近くのカフェに向かった。小さいテーブル席で、本を読んでいると、向かいの4人掛けテーブルに3人の女性が座った。全員が30代で、小学生の子供を持っている母親だということが、彼女たちのおしゃべりの中で分かった。最初は、有意義な話をしているようだった。子供との接し方とかそういう事だ。しかし、次第にそれらはただの愚痴だとうことがわかってきた。そして、ついにこの会話は、子供のおった折り紙を以下に気がつかれずに処分するか、サブスクで送られてきた通信教材の付録をいかに高値で売れるか、子供の遊び相手にならないようにするためにゲームを与えて、なるべく避けているという方向へと突き進んでいた。
 別に僕は母親ではないし、母親になることもないだろうけど、僕の母親も似たような話をしてきたのだろうな、と少し思った。ただ、母親は、ゲームを与えたがらなかったし、サブスクとかは邪魔になるだけと思ってとったこともないから、この人たちと話しえる点は、恐らく、いかに子供のおもちゃを管理するかという事だったと思う。ただまぁ、とにかく、僕がその後カフェを出て、快晴の空を見上げた時に感じたことは「あのような人たちを母親に持つだなんてまっぴらだ」という事であった。

 夕方、大学が終わった後に、友人を待つために本屋と併設されているカフェで時間を潰していた。僕は、大学でちょうど扱っていたフォークナーの短編を本棚から持ってきて読んでいた。隣には背の高い高校生の男女が座っていた。カップルかと思っていたが、男の方が最近別れたらしく、二人は(今のところは)友人関係という事だった。ひとつ気まずかったのは、アイスコーヒーを頼むために列に並んでいた時、僕は彼らの後ろにいたので、なんだか後ろをつけているみたいで決まりが悪かったことだ。「イマドキ」といった感じのふたりの会話は、なんと僕がその場にいた一時間弱ずっと、髪の毛の話だった。もっというと、髪型の話であった。マッシュが嫌だ、という話を男がすると、女は男が好きそうな髪型を見つけようとスマホをいじる。「これがいいんちゃうん」と言うと、男はいつもうじうじとして、おおらかに同意しようとはしなかった。そのやりとりの中には、なんだかお互いのプライド、片方は男のことを自分はよくわかっているぞという自負、もう片方は、自分は美人相手でも鼻の下を伸ばさない男だぞという痩せ我慢、が垣間見えて会話は一生平行線だった。この人たちは、とにかくこの会話しかしなかった。わざわざ混み合う商業施設の最上階の本屋が併設されているこのカフェに来て、この話をしていたのだ。

 その晩、友人たちと酒を飲み、互いの近況について話し合った。その帰り道に思ったのだが、僕は酒の席で話をしている時、周りの人たちが一体どんな話をしていたのか全く覚えていなかった。そして、自分達の話はとてつもなく有意義なことに費やされたと思っていたし、実際そうだったと思う。けれども、それを外側から聞いていた人がいたとしたら、それってどうだろう。果たして同じように思うことがあるのだろうか。あの母親たちや、高校生たちがあの話を聞いていたら「よくそんな話できるわね」と言われてしまいそうで仕方がない。
 外は晴れていた。月はかけていたが、今朝の空と同じくらい清々しい夜空がそこにあったので、僕は大きく息を吸った。こういう日には、冷涼な夜の空気が最高の酔い覚ましになってくれる。

 「空に顔をむけなさい。もしも、あなたが、どのように時間を過ごしたのかを知りたいのなら。」
 中学校時代、一番お世話になった先生がそう言ってくれたのを僕はずっと覚えていた。無駄話や愚痴も時々必要で、だけど、そればかりしていると虚しくなるという事がある。これを知ったのは、この空を見上げる習慣が身についた頃だった。空を見上げると、自分が今どれほどちっぽけか、ということがわかる。だからこそ、自分の中で何が大きくなっているのか、ということがわかってくる。そうすると、まるでそこに形があるかのように、自分がそれを手で触れているかのように思えて、それが良いものか悪いものかわかってくる。
 「空に顔をむけなさい」
 いい言葉だな。


 ところで、最近、空に顔を向けると思い出されることがある。最近知り合った女性がいるのだが、その子のことが思い出されてしまうのだ。時々、空に顔をむけていなくても、朝目が覚めると、その人のことを思い出している。空に顔をむけて、その人のことが思い浮かぶと、僕はついついそれ以上考えるのをやめてしまう。
 それでも、空はずっと僕のことを見ている。そろそろ正直になって断念し、腹を括って素直にならないといけないのかもしれない。失恋ばかりは、空は癒してくれないというのに、残念なことである。

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