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【短編】テストについて

 中学3年生の夏、私はテストの点数はなんて威張っていて嫌なやつなんだ、と不意に思った。一体こいつは、なんなんだ。私のためには何もしてくれないくせに、私のことを色々と決めてくるこいつ。
 テストの点数だけではない、あらゆる教科の評定や、内申点、高校受験についてだって、そうだ。たとえば昨日帰ってきた英語のテストに書かれているこの数字は、一体私にどんな影響をもたらすと言うのだろうか。紙に殴り書きされた赤い数字が、これからの私の人生に少しでも影響を及ぼすだなんて、ちっともピンとこない。
 私は覚えのいい方だ。多分、点数の低い社会や理科のこともそれなりに覚えたまま大人になるだろう。たとえば岩手県にいって、リアス式海岸を目にしたときに、あるいは、鹿児島県に行って火山灰の土に触れた時に、そう言う事を思い出したりするだろうし、それは少なからず役に立つのかもしれない。一緒にいる友達、あるいは自分の子供かもしれない、に教えられたり、初めて本物を見た時の、あの感動を、私にもたらしてくれるかもしれない。でも、そういった可能性と、目の前の紙に書かれた数字に一体どんな関係があるのだろう?私は別に、社会と理科の点数がいいわけでもないのに。

 小学校からの友達に、頭のいい子がいた。その子は昔から「源氏物語」が大好きで、私にもよくその話をしてくれた。中学では、「源氏物語」もテストに出た。その子は見事に100点をとった。羨ましいと思った。でも、私だって同じことができるのだ。私は鉱物が好きだ。だから、鉱物についてのテストが出れば学年どころか、学校中で一位が取れる。でも、そんなテストがあるわけでもない。
 それに、その友達はなにやら不満そうにしていた。「もっともっと、ちゃんと知ってるのになあ、わたし。」と言っていた。その時のテストでは、その子以外にも100点をとった人がいたし、「源氏物語」の範囲だけ満点で、他の単元で点数を落としている人もたくさんいた。こんな点数で、友達の好きなものが計測されているような感覚に私はどこか嫌な気分がした。

 「点数なんて、すぐ伸ばせるぞ。そんなものはどうでもいい。」
 そんなことを考えている私に、キッパリとそう言ったのはある大学生だった。それは、夏期講習期間の塾で働いていたバイトだった。見るからに頭が良さそうで、それでいてユーモアもあった。朗らかで、だけど、怒ると少し怖い。その人の話はなんとなく面白いなと思っていた。多分、私が言いたいことを、言葉にして言ってくれていたからだと思う。先生は続けた。
 「俺の高校の恩師が、そうやって教えてくれたからな。いいか、学校の勉強は大事なんだ。どこかで役に立つかもしれない。あるいは、忘れてしまうかもしれないが、それはそれでいいんだ。重要なのは、そういうことじゃない。頑張ってきたという事実の中で、『確かに今をなんとかやっていっている』という、心の中に生まれてきただろう確信をちゃんと実感できるかどうかなんだ。それも、何度も何度も、そういう確信を感じてきたかどうかなんだ。だって、その確信は、何かを頑張っている時以外は忘れちまうからな。でも、そういう確信を持って生きている時間をたくさん生きてきた人間は、どんな時でも踏ん張れるもんなんだ。」

 何となく、夏が終わりそうな風が吹いた8月の終わり、まだまだ残暑はあっただろうが、私は切なくなっていた。その大学生の話は、どこか温もりと諦めを一緒に詰めた袋のようで、それは重そうだけど、吹けば飛びそうで、この両手では溢れそうで、だけど一つとしてこぼしたくないものだった。私はその先生の目を見ていた。大学生である先生の目はいつも同じ色をしていた。話している時だから目の奥に輝きが見えるわけではない。ふとすれ違う時だって、怒っている時だって、彼の目は何一つ変わっちゃいない。この人は素敵だな、と思った。
 しばらく、私や、話を聞いていた他の数人の生徒の顔を見回してから、もう一度先生は息を吸った。
 「こんなこと言いたくはないが、君たちは高校受験をする。点数が必要だし、いい高校に行くことは大切なことだ。なぜなら、そういう高校にはいい大人がいるからだ。みんな勘違いしているが、大事なのは誰に教わるかってことだ。有名な高校に行くことじゃない。でも、それはどの高校にいるかなんてわからない。大学に行くときなんてもっとそうだ。それは運試しだ。君の人生を賭けた運試しなんだ。でも、君が生まれてくるかどうかからずっと僕たちは運を試されてきている。正確には、君のお母さんが全身全霊で運試しして、君を産んだんんだ。だから、そういう運試しは避けては通れない。その運試しをするのに必要なコストが点数とかだったりする。ただ、大人になったら、そのコストは点数じゃなくて、普段の生活、振る舞いとかになる。より、目に見えなくなる。毎日洗濯を回しているのか、家の掃除、特にトイレは綺麗か、とか。
 だから、点数なんか無視したっていいと頭ごなしに言いたいわけじゃない。意味を理解すれば、点数なんか取るに足らないものだとわかるはずだと言いたいんだ。高校の準備のためにみんなが勉強していると思ったらそれは大違いだ。もしも、そんなことを言ってくる大人がいたら、高校生になった後に『高校は何のために勉強するの?』と聞いてみるといい。『大学の準備のためだ』といってくるはずだ。そして、『大学では社会に出る準備のため』とまた繰り返す。じゃあ、社会に出たら?『死んだ後の準備のため』とでも言うのだろうか?頭の悪い大人なら、『出世の準備のため』とか言うかもしれない。そういう大人にはこうきいてやれ。『じゃあ、僕のお父さんとお母さんは、僕を産むために愛し合ったんだ。恋愛は、その準備なんだね?』と。そう言っても、ピンとこない大人とは付き合わない方がいい。
 だから、みんなはもっと安心していい。君たちは、君たちだから頑張っているんだ。数年後のためではなく、今を全力で生きるために。君たちがアツくなる学園祭は、そういうものだろう。誰が社会に出た時の準備のために、全力になれるものか。君たちは今頑張っている。結果として、それが君たちの運試しを楽しいものにしてくれる。この世は思っているよりもつまらない。でも人生は知っている以上に楽しい。勉強ってのは本来、そういうことをどっちも教えてくれるものなんだ。」

 私は、この日以来、受験受験という先生やニュースが大嫌いになった。小学校では中学のため、中学校では高校のために…そうやって点数を出せと急かしてくる大人たちは何だか違う。こうすれば点数が取れるとか、後もう少し頑張れば評定上がるのにとか。まるで目の前に餌を吊され続けているようだ。そうやて走ったとしても、最終的には目の前に吊るす餌も取り上げられて、「これだけ走ったら走り方はわかるだろう」と見放されてしまうだけだ、と気づいたのだ。人生の走り方のことだ。ちがう。こんなのは、まるで詐欺だ。私は人生の走り方は知っている。問題はそこじゃないのだ。あまりにも広い、この人生という荒野の、どこに道を作っていくのか。私以外の全ての大人が、誰もこの問題を問題とすら気がついていないと思った。いや、子供ならみんなそうやって考えている。だから間違えるし、走るのをやめたりもする。だというのに、いつも走れだなんて。
 私たちは、運試しのコストを支払えなくなった大人たちの、新たな運試しの道具じゃない。私たちの人生は、この人たちの馬券じゃない。
 まあいいさ。今に見ていればいい。私たちをそう扱ったって、運試しなんかできやしないとすぐに気がつくはずだ。競馬のようにゴールがある人生なんか、私たち子どもは誰一人として信じていないのだから。

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