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【短編・書簡】僕のあげた赤ワインのグラス

 君たちに会いたいなぁ。学生の頃なんでも打ち明けられた、あの君たちに。どうして今はこんなにも遠くに君達がいるように感じているのだろうか。もちろん住んでいる距離も遠くなった。身分も変わった。なのに、僕たちの関係性だけは何の発展性も無い。だからワイングラスでシラーやらテンプラリーニョやらを飲む時、君たちを懐かしく思ってしまう。僕たちは、一人一人を見れば間違いなく変わってしまったのに、僕たち三人は、何も変わっていないだなんて。

 僕は毎日研究で忙しいよ。君たちとの思い出に背中を押されて、古本の、あの埃っぽい匂いの中で、頁をめくる日々。君たちと一緒にいる時には絶対に触れてこなかった言葉の数々に圧倒されて、毎日を過ごしているよ。

 相変わらず、僕が好きなワインはずっと赤なんだよ。僕の好みを押し付けるように、君たちにあげたワイングラス—あれが最初の僕からの贈り物だった—は使っているかい?もっと、色々な場面で使えるものにすれば良かったねぇ。でも、君たちがグラスを持って遊びにきてくれたあの日のこと、今でもよく覚えているよ。
 鴨川はいつも通りうるさかった。けれども僕らの、あの部屋が一番賑やかだった。僕の作った料理は、君たちのためだけのものだった。本当に、そういうことがあっただなんて…とたまに思うんだ。僕には、時々君たちと過ごした時間を、非現実的だったなと思い返すことがあるんだよ。こういう気持ちわからないかな。
 壊れやすいワイングラス。そういうものを持ち寄って、手料理で乾杯する大学生—。あれが夢だったとしても、三人の中であの時の話ができるならなんだっていいんだけど。たまに疑ってみたくなるんだよ。

 僕が居酒屋を抜け出した時のこと、覚えているかい?君たちには本当に迷惑をかけたね。酔っ払って、ヤケクソになってしまった時のこと。君たちとの時間で、最も思い出深くて、そして、最も謝りたい思い出。思えば、楽しい時間になるはずだった色々な瞬間を、壊してしまうのはいつも僕だった。
 この手紙だってそうだろう。こんな風に懐古する事が無ければ、こんなセンチメンタルな気持ちになることなんて無いのに、わざわざ掘り返しているんだから。

 ワイングラスは、実は割れてしまったんだ。
 これは、それを君たちに伝えるための手紙なんだ。

 研究が上手くいっていてね。実は、この前話した僕の論文が、今度研究会の紀要に掲載されることになったんだ。それから研修留学も決まった。半年ほどアメリカのオハイオ州立大学に行くんだ。

 ただ、恋愛運は、あの頃よりずっとなくてね、元々皆無だったのに…。ようやく彼女ができたんだけど—もしかしたら、君たちには話していなかったかも—その彼女が、少し、良くなくて。留学の話は、喜んでくれなかった。まるで、ずっとアメリカに、僕が行ってしまうみたいな、そんなふうだった。「私との時間をとってくれないのに!」と言って、彼女が壊したのが、例のグラスだった。

 このグラスがどういうものか、彼女は知ってた。多分、思い出をずっとまとわせて生きている僕のことが、さらにはそういう僕が彼女のそばを離れてしまうことが、彼女は嫌だったんだろう。とにかく、グラスが割れた。彼女のことなんか大したことじゃない。もちろん別れた。

 君たちのワイングラスもいつか壊れるとは思う。けれども、それでいいと思うんだ。もし、割れた時に、僕たちがまた集まれたなら。その時はまたグラスをプレゼントさせて欲しい。僕が今、願うのはそれだけなんだ。
 だから、また今月、会ってくれないかな。今度の土日に、東京に行く予定があるんだ。だって留学前に、君たちに会っておかなきゃいけないだろう?

 君たちに会いたいなぁ。学生の頃なんでも打ち明けられた、あの君たちに。どうして今はこんなにも遠くに君達がいるように感じているのだろうか。もちろん住んでいる距離も遠くなった。身分も変わった。なのに、僕たちの関係性だけは何の発展性も無い。
 確かにこの世には、発展すべきものが溢れているかもしれない。というより、全てがそうだと、そう信じ込んでいる人しかいない。否定するつもりはないけれど、何でもかんでもっていうのが僕は嫌いなんだ。いつまでも僕らは僕らのままでいよう。壊れないように棚にしまっておくなんてことは、よしてしまおう。僕らの人生だって同じだろう。
 だから、今度、東京の飲み屋から僕が走って逃げ出してしまったとしても、どうか追いかけてきてくれよな。

親愛なる僕のボーイとガールに向けて。

 

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