見出し画像

【短編】ありがとうって、あのこに言ってくるよ

あるいは運が良ければ、こんなふうにふたりで歩くことはなかったのかもしれない。
ふたりにとって、この二週間というものは悲惨というと大袈裟だが、少なくとも穏やかではなかった。ふたりには大仕事が待っていたのだ。それは人生の中で大きな意味を持つものだった。これまでの人生は、このゴールに向かって一直線に伸びているようにさえ思えた。

店を構えて、一緒に働き始めるということ。新しいそれぞれの生活を始めるということ。彼にとっては念願の夢、彼女にとっては思っても見ないチャンスであった。でも、その夢とチャンスはあっけなく潰えた。店が開かれるはずだった土地は土砂に塗り潰され、地盤ごと流されたのだ。不動産もこればかりはと頭を抱えた。それは、今回の損失をどこまで保険で賄えるのかということについて、その額が期待できるかどうかという事について、ふたりが理解するのに時間はかからないという事だった。

ふたりは今、開店を迎えるはずだったこの日に、その土地から遠く離れた都市に来ていた。道中で二人は駅弁を今までにないくらいの勢いで食べた。黙って食べていた。それから、雨が降るという予報は外れ、西日がさしていた。

ふたりは駅に着いた。ふたりは満腹感と眠気、そして言葉にし難い高揚感に揺さぶられていた。ビル群の間を抜け、登れるだけ高いところに登った。綺麗な景色が見えるんだよ、とその子は彼に言った。最後の階段に差し掛かった時、横の広場には人が溜まっていた。そしてその階段は封鎖されていた。「当面の間…」と書かれていた。理由はわからなかったが、その足でふたりは引き返すしかなかった。引き返すしかなかったふたりはそれを笑った。心の底からふたりでいることに安心感を抱いていた。

ふたりは座る場所を見つけ、腰を下ろして話し始めた。ただ、ずっと言葉が見つからないまま話していた。何を伝えるかというよりも、この時間の流れだけがふたりを癒しているようだった。彼はその子の言葉を聞いて、嬉しくなってありがとうと言った。

彼はその子を駅まで送った。御堂筋線はいつも通りの混雑を見せる。その子は急に紙袋を取り出して、それを彼に渡そうとして、一度やめた。言葉にできない言葉を伝えたかった。ただ最後にありがとう、と、添えた。彼は胸を詰まらせて、この子にこれまで何をしてやれただろうと思った。この子は自分に頼りきりだったし、とても色んなことに関心を抱く性格があって、心配性で、マメで、なんでも彼に質問した。この子は本当にまめだった。どんな小さなことも、この子にひっついて見えた。でも俺はどうだろう。

駅の改札前は騒々しかった。ふたりの世界はこの騒々しさに耐えられなかった。どこか静かな場所にしなきゃね、と、ふたりは一旦改札を離れた。別にこの後用事があるわけでもないのだ。急いで別れる必要もないのだ。

少し話をして、買い物をして、戻ってきた時、ふたりはまた同じ場所に留まった。そして、また同じ別れ難い気持ちを抱いた。でも騒々しさは、ふたりのことをもう引き止めなかった。彼女は紙袋を今度は渡したし、彼は彼女に堅いハグをした。

彼はひとりで阪急への道を歩いていた。そして考えていた。ふたりで腰を下ろして話した時のことを。すぐ近くに派手なメガネ売り場があった。広告の男や女は、派手なサングラスでこちらを見つめていた。そして、そこから自分はどんなふうに見えるのだろうと想像していた。あの子から僕はどう見えていたのだろうか。あの子と一緒にいる時、それはどんな時でも気の抜けない瞬間の連続だった。彼女の一生懸命さは、片時も休まる事を知らなかった。大人の余裕を見せてきたつもりだけど、内心その子の本気というものが、彼自身のやるべき事をやる原動力になっていた。いやらしいお金の計算、不動産の長い話、金融業者のにんまりとした顔。でも、それ以外はどうだろう。食器をあの子が選んでいた時、エスプレッソマシンを初めて動かして見せた時、ラテアートを初めて作ってみせた時、彼が机に突っ伏して寝ている時でさえ、傍のノートの上をペン先が滑る音が消えることはなかった時。どんな小さな出来事も、あの子といる時のことは鮮明に思い出せた。あの子の存在は、彼にとってなんだったのか。それをどう言い表せられるのか、彼は考えていた。

ふと、あの子に頼られれば頼られるほど、この店を開くのはふたりなんだと思えたのだ、と思った。どうして急にそんな事を思ったのか、彼には見当もつかなかった。彼はその時、阪急の、特急の、あの四人シートの一つに腰掛けていた。そういえば、最後になんて彼女に言って別れたか、彼は思い出せなかった。覚えてるのは彼女が精一杯ありがとうと言ってくれたことだ。一方的に伝えられた感謝に彼はどこか耐えられそうになかった。そういう想いが胸を詰まらせた。この場にひとりでいることが急に心細くも思えた。でも一体何が不安なのか分からなかった。この電車がこの後事故に巻き込まれたとしても、彼はそんなこと怖く無いだろうと思った。でも事故なんか起こってほしくないし、起こるなら今起こって欲しかった。この電車が発車する前に、ここを飛び出してしまいたかった。

対面の席に、目薬が落ちていた。その横の溝には何かのパッケージが挟まっていた。それをどけて座ろうとする人はおらず、ただ、目の前の席だけが空いていた。彼は立ち上がろうとしたが、でも、もう立ち上がらなかった。心の中で行ってきますと言ってから、しばらく聞かないであろう電車のドアが閉まる音を聞いていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?