【短編】心のピントと調節機能、そして不安
寝ていると、たまぁに自分の体の大きさがわからなくなる時がある。僕は、家の外で、鴨川の水が流れているのを感じながら寝ようとしていた。時々なるサイレンは、もはやこの辺りでは定番で、大体が救急車だった。この街は高齢化とともに不穏な雰囲気を膨らましている。
僕の体は、まるで、僕の「外側」だけ膨張させたかのように、この部屋のなかで膨らんでいる。もちろん、実際にはそんなことは起こっていない。僕は時々どうしようもないむず痒さに襲われて、目を開いてしまう。そして自分の体の大きさを視認して、それでも頭の中に残るこの不思議な感覚と、視覚情報を合わせようとしている。
こういうことがよくあると、当然眠りは浅くなる。いつものカフェで、僕はカフェの奥さんにいつも心配されていた。けれどもこの日は、その人とは別の女性、既婚者ですらっとした長い髪が特徴的な美人だった、と偶然この現象について話をしていた。話題を切り出したのは、彼女の方からだった。
「『不思議の国のアリス症候群』って言うらしいんですよ。」と彼女は言った。
「え、なんだって?アリスですか?」と僕は言った。それから少し考えた。「あぁ、キノコを食べて、大きくなったり、小さくなったりするからか…。」
「私にはよくわからないんだけどねぇ。でも、アリスですって。可愛らしいわよねえ」
確かに、可愛らしい名前だが、何より僕が驚いたのはその可愛らしさではない。名前があることだった。つまり、この現象は以前から確認されていて、一般的に知られており、一つの症例として存在していると言う事実だ。つまり、僕以外にも、そしてこの女性以外にも、とても多くの人がこの症例にかかっていると言う事実だ。
「きっと僕よりもみんな日々疲れているんでしょうね」と僕は言った。
「え、どう言うことですか?」
「だって、あんな感覚に襲われては寝れないでしょう。名前がついているほどなら、多くの人がこれで寝不足になるけど、世の中が寝不足には見えませんもん。僕のように」
たしかにねぇ。なんて、彼女はいった。すると、店の奥からこのカフェの奥さんがやってきて、「なになに?」と聞いてきた。僕は一部始終を、この女性と半分ずつ話した。
「へぇ〜!なんだかロマンチックだね」と奥さんは言った。
「症状としては、変な感じですよ。」
「でも、その感覚が残っていて、これはアリスなんだ、と思っていたら、いつまでも若くいられそうじゃない?」と奥さんは言った。
「いやあ、どうでしょうかね」と、それを聞きながら女性は答えた。
なんだか、不穏な雰囲気が漂っている、と僕は感じていた。すると、雨が降ってきた。奥さんは、「あら、うちの子大丈夫かしら。傘持っていないかも。」と言った。僕はなんだかこの雰囲気が、このカフェ全体に敷き詰められている気がした。それはちょうど、我が子の帰りを待つ母親が抱く心境に、ちょうどぴったりなものではないだろうか、と感じた。
僕は高校まで地元に住んでいた。水曜日は部活がなく、母親も出掛けていたから、僕はポストで鍵を拾って、誰もいない家に帰るということがしょっちゅうあった。家に帰ると、だいたい書き置きが置いてあった。母親の字はとても柔らかくて、流れるような字だった。それはちょうど、母親のほっそりとした体型、そしてあの指から奏でられるピアノの音にそっくりだった。どこからどこまでも、母親が生み出す物事は、そういう感じでほっそりしていた。それは、とても優しかったが、どこか頼りなさがあって、天気が悪いことの多いこの地域では、幾分頼りなさの方が匂ってきて、家全体に充満したような気分にさせられることが多かった。
母が帰ってくるか、弟か、あるいは妹か。時々父親が先に帰ってくることがあったが、そういう時は決まって飲みに行く準備のためですぐに出掛けてしまう。
電気をつけるほど暗くない部屋、けれどもつけないと、どんよりするこの部屋には、何か得体の知れない安らぎがあった。これにすぐ浸かってしまう僕は、帰ってきたその誰かに「暗くないの?」と言われて電気をつけられることが多々あった。
あの時代、僕は母親を待つ経験をしていた。その母親も、そして当然父親もいい歳になる。二人を地元に残していることが、おそらくこれからどんどん大きな不安となってくるだろう。この街でサイレンを聞くとき、そういう類の不安が心によぎる。そして、僕は頑張って目を瞑る。すると、途端に鴨川ぞいのあの一室から、僕はウサギ穴に落っこちてしまう。身体と感覚が分離して、部屋全体に感覚が拡大していくのに比例して、ベットの上の僕は蟻のように小さく、ネズミのようにうずくまっているようになっていく。本来一致しているはずのこれらを取り戻そうとして、心が苦辛するが、一致してこない。スマホのカメラが、時々ピントが合わなくなる時があるが、まさにあの時のようなどうしようもなさが、そこにはある。いつも自動に合わせてくれるピントを、こういう時ばかりは手動で操りたいと思うが、そんな融通が効くほど、この自動という力の支配は柔らかくないのだ。
「まぁ!濡れてでも帰ってくるでしょう〜。あの子の事やから」と奥さんが言った。
僕も、そしてアリス症候群を共に発症しているこの女性も、すこし、ふふ、と笑って奥さんの顔を見た。「まあ、そうですよね。子供ですからねぇ。」と女性は言った。
僕の顔に安堵の色が戻っているのを、僕は感じていた。瞳孔が適度な大きさに収まって、間違いなくこのカフェの景色を鮮やかに捉えていた。見ようとすれば、どんなものにもすぐにピントがあって、見ることができた。カフェの中の風景を捉えながら、外で雨の音が止むのを僕は聞いていて、感じていた。きっとそれはこのカフェにいる、3人全員が感じていたと思う。けれども誰もそれを、もう気にしていなかった。
しばらくして、走りながら子供が帰ってきた。全く服は濡れていなかった。奥さんがカフェから出て話をしている。「だって、そこの通りは屋根があるもの!」という声が聞こえた。毎日通っているところなのに、どうして誰もその話をしなかったのか、どうして誰も気が付かなかったのか、と僕は思った。そして、この街で過ごし始めて4年目になる僕は、一体これまで何をしていたんだっけ、と考え始めていた。
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