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ときには、幼児(おさなご)のように。


人は「気にしない」と思っていても、意外と根に持つことがある。特に大人ほど、意外なポイントを忘れずに覚えているものだ。

まわりから見れば、

「えっ、そんなことをまだ覚えてるの??」

なんて思われるようなことも、当人にとっては墓場まで持っていけるくらい鮮明に、つらつらと覚えていたりする。それもちょっとドキドキするけれど。

それ、つまり大人ほどそういったケースが往々にみられるのは、子どもから大人へと成長するにつれ、「記憶」できるキャパが増えることも影響しているのだろう。

記憶できるハコが大きいほど、いろんなモノをたくさん詰め込んでしまう、しまいたくなる。それがいいモノであろうと、なかろうと。

大人になると、いいこともあるけれど、そうでないこともたくさんあるように。


大人になると「心のひだ」が気になる

根に持つということは、相手のちょっとした一言やその様子が気になり、心に残っているからなのだろう。

「それはなぜなのか?」

記憶のハコが大きくて、ついついなんでも「思い出」にとっておいてしまうからかもしれない。好きだった洋服がヨレヨレになっても、なんとなく捨てられずにタンスの隅にしまっておくかのように。

はたまた、その言葉が深く心に突き刺さり、抜け落ちたトゲが記憶のハコにしまってあるのかもしれない。そして、トゲが抜け落ちたとしても、その傷が癒えても、年とともに増えていく「心のひだ」が気になるのだろう。

自分の心のひだも、言葉を交わした相手の心のひだも。


子どもたちの「とある1日」がまぶしかった

大人になると、人と接するとき、ちょっとしたよそゆきのヴェールを身にまとう。そういうとき、本音と建前が入り混じる。「ありがとう」「ごめんね」もあまり使わない。使ったとしても、体裁を整えるかのように。


我が家にいる子どもたちを見ていると、一瞬一瞬がほんとうに目まぐるしい。

けんかしていたかと思えば、5分後に笑っている。その5分後には走り回り、夜には同じ布団でクスクス笑い合っている。毎日百面相だ。

そんなとある一瞬、長男を追いかけていた次男がおもちゃに足を引っかけ江、ひっくり返って転んだ。大泣きだ。

長男はそのまま走り去ってしまうときもあるが、そのときは後ろを振り返って次男をひざをさすり、

「大丈夫?」

「ごめんね、ごめんね」

といって、助けてあげていた。


私は、

「お兄ちゃんしてるやんか~」と思うと同時に、

純粋に「ごめんね」っていえる子どもが、まぶしく見えた。


子どもの素直さを心にまとう

仕事をしていると、当たり前だが「大人」と接することになる。自分より能力の高いスペシャリストもいれば、ジャンルがまったく異なるビジネスパーソンもいる。そんななかにいると、ついつい「よそゆきの自分」をつくりあげてしまう。

けれど、子どもたちと触れ合っていると、そんな自分が滑稽にすら思えてくる。体は大きくても、ちっぽけだな、私、なんて。


文章を書くことでも大切だが、子どものような素直さを心に持ち、創作に励みたいものだ。


子どもに学ばされることは、日々、数えきれないくらい。

これからもきっとそうなのだろう。

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