私にとって「書くこと」とは。
先月の話だ。
知り合いの経営コンサルタントさんの2時間セッションを受けた。最近モヤモヤした日々が続き、仕事に関して相談してみようと思ったからだ。
その女性コンサルタントさん、見た目はきれいなのだが、どっしりとした低い声でなんともたくましい。初めて声を聞く人にとっては、威圧的にさえ感じられてしまうかもしれない。
私は以前からオンラインでその声、姿を拝見していたし、知人を通してその人となりを知っていた。最近のモヤモヤを、どしっとしたパワフル感で払しょくしてもらいたい…なんて思いも抱えながら、お願いしたのはここだけの話。
2時間のセッション、たくましい声に圧倒されるか…と思いきや、実に楽しいひと時だった。むしろ、私のモヤモヤした気分が晴れて、元気をいただけたくらい。
コンサルタントからの一言「あなたにとって文章って何?」
その時に聞かれた質問のひとつが、これ。
「あなたにとって文章って何なの?」
皆さんにとって、文章とは、書くこととは何だろう?
その時の私の答えは、「私にとっての文章は空気」だと。
何とも「ぬかにくぎ」のような印象だが、私にとっては至極全うな返しと思っている。
私にとっての文章は空気。空気は、普段は「あって当然」の存在。ごくごく身近にあって、人が生きるためには欠かせない。もし空気(文章)がなければ、きっと私(私の心)は死んでしまうだろう。
そんな風にすら思っている。
だって、文章(言葉)がなかったら、自分の思いは表現できない。人とのコミュニケーションもうまく成立せず、思いを伝え合うこともできない。もしそれが現実となれば、なんて空虚な世界なんだろう。
考えただけで切なくなる。
私にとって「書くこと」は「生きること」なのか
文章が空気であるならば、
私にとって文章を書くことは、この世に生きることだ。
人はこの世に生を受けたその瞬間から、息を吸って吐いて、命をつなぐ。もし、呼吸をすることをやめてしまったなら、その命は尽きる。
文章を書くことは、言わば「自分がこの世に生きている証」のようなものでもあろう。とてもおこがましいことではあるが、こうしてほんの些細なところで自分の言葉を表現する。それがたった一人にでも読んでもらえたなら、私が今、この世に生きていることを証明してもらえている。
「生の証人」だ。
今はこうして一個人でも言葉をのこせるような場所がある。それは文章をこよなく愛する人にとって、とても幸せなことなのだと痛感する。
私は今日も書く、そして明日も。
最近、
「どうして書くんだろう」
「何を書きたいんだろう」
「なぜ書く仕事をしているんだろう」
「私が書く仕事なんてしていていいんだろうか」
などなど、心の中がモジャモジャになっている。
すぐにすっきり晴れるわけではないかもしれない。明日になったら、また違うモジャモジャが現れるかもしれない。いや、これからずっとモジャモジャと共に生きていくのかもしない。
けれど、私は今日もこうして文章を書いている。そして、きっと明日も書くだろう。
目指すゴールはどこなのか?どんな文章が書けたらすっきりするのか?
それはわからない。
けれど、息をするかのように、今日も私のそばには文章がある。
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