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小説『舟を編む』を読む-言語学的私感-

先に映画で観ていた『舟を編む』ですが、映画のもとになった小説ではどのように描写されているか気になってしまい、書店で購入してきて読んでみました。映画にはなかったシーンが描かれていたり、映画とは違う設定になっていたりと、見比べてみるのもなかなか楽しいもので。
映画と同じく小説もこれまではあまり読んでこなかったものですから、話の展開がどうだ、とか一般的な小説の感想を述べるのはやめておいて、例によって言語学を学ぶ者の視点で気になった点をいくつかまとめてみます。

映画を観た私感をまとめた記事はこちら。

※以下、各引用の最後に示した頁数は光文社文庫より出版された2015年3月20日初版1刷発行、2019年9月20日15刷のものを使用しています。

ある程度の幅のある“時”しか切り取れない

先の映画を観ての私感を述べた記事に、辞書編纂はコトバの変化に追いつくことができないという意味で、100%の「生きた辞書」は存在し得ないのではないか、ということを書きました。映画ではその点に言及した明確な台詞はなかったかと思いますが、小説でははっきりと書かれていました。

どれだけ言葉を集めても、解釈し定義づけをしても、辞書に本当の意味での完成はない。一冊の辞書にまとめることができたと思った瞬間に、再び言葉は捕獲できない蠢きとなって、すり抜け、形を変えていってしまう。辞書づくりに携わったものたちの労力と情熱を軽やかに笑い飛ばし、もう一度ちゃんとつかまえてごらんと挑発するかのように。(p.90)
辞書は真実の意味での「完成」を迎えることがない書物だ。思い入れすぎては、「ここまでにして、世に問おう」と踏ん切れなくなる。(p.132)

言語学では、特定の語や言語現象に注目して、それらが歴史的にどのように変遷してきたかを考える方法を通時的研究(通時態)、そうではなくある特定の時を切り取って、その時に言語がどのような様相をしているかを考える方法を共時的研究(共時態)と呼びます。辞書に本当の意味での完成がないという指摘から、この共時態が切り取る“時”にもある程度の幅があることが感じられました。つまり、言語の絶え間ない変化の一瞬を切り取ることはほぼ不可能と言ってよい、ということです。例えば日本語のハ行子音は、[p]→[ɸ]→[h](平仮名で表記すれば「ぱ」→「ふぁ」→「は」)の順に音が変化したと言われています。今、我々が「はな」と呼ぶ「花」は「ぱな」「ふぁな」と呼ばれていた時代があったということです。ただ、そうした変化も[p]で発音していた音がある日突然[ɸ]に変わるわけではなく、2つの音が両立する過渡期を経て漸次的に変化していきます。その意味で変化に境界を見出すのは極めて難しいことであり、まして言語変化の流れの中のほんの一瞬を切り取って体系的に記述することなど、できるはずもありません。だから、いくら共時態と言ってもある程度幅のある“時”を切り取るよりほかに仕方がないのですね。

結局、好きだから。

辞書編集に勤しむ主人公・馬締の妻、林香具矢は板前として働いている設定になっています。結婚する前のデートのシーンで、板前の仕事と辞書作りの仕事の共通項について語られる場面があります。

「どんなにおいしい料理を作っても、一周まわって出ていくだけ」(p.90)

そんな板前のむなしさやさびしさは、「本当の意味での完成がない」辞書作りにも共通していて。

食べても食べても、生きていれば必ず空腹を感じるのと同じく、捕らえても捕らえても、まるで実態のないもののように言葉は虚空へと霧散していく。(p.91)

それでも板前という仕事を選ぶのでしょう?という馬締の問いかけに「やっぱり選んじゃうと思う」と香具矢はうなずき、

「好きだから」(p.91)

と答えたのでした。
やっぱり、結局はこの台詞にたどり着くのでしょう。

言語学も、延いては学問というものも、きっと板前や辞書作りと同じさびしさやむなしさを含んでいます。言語が変化しつづける以上、言語学はその後を追い続ける。話を「学問」にまで広げても、人間がこの世の森羅万象を知り尽くすことなんてできないわけだから、これも半永久的に続いていくものだと思います。それでも人は学びを止めることはないのです。

大学の先生に、なぜ学問をするのか?という問いをぶつけてみると、ほとんどの先生の答えは香具矢と同じく「好きだから」。きっといろいろな経験を積んで来られた上での究極の答えだとは思うのだけど。大学の学問に触れて間もない僕等は、どうしてもこれ以外の答えを探そうとしてしまいます。言語学に何ができるのか。どのように世の中の役に立つのか。直接的な応用が比較的少ない人文系の分野は、その存在意義を問われてすぐに答えるのが難しいのは確かだけれど、それに対する自分なりの答えを時間をかけてでも探すことは極めて重要です。ただ、答えは簡単には見つからない。だから、まずは騙されたと思って素直に学問を楽しむこと。言語学を好きでいること。この心持ちを忘れないようにいたいと思うのです。そしていつか、大学の先生と同じように、より重みのある「好きだから」という答えにたどり着きたいと思うのです。

有限の時間しか持たない人間が、広く深い言葉の海に力を合わせて漕ぎだしていく。こわいけれど、楽しい。やめたくないと思う。真理に迫るために、いつまでだってこの舟に乗りつづけていたい。(p.184)

この台詞が、僕の心の片隅にある気持ちを代弁してくれているようです。

好き、を超えないで

馬締よりも前から辞書編集部に籍を置いていた西岡という男が、馬締たちの辞書編纂に対する姿勢を見て、次のように語る場面があります。

一種狂的な熱が、彼らの中には渦巻いているようだ。かといって、辞書を愛しているのかというと、ちょっとちがうのではないかと西岡には感じられる。愛するものを、あんなに冷静かつ執拗に、分析し研究しつくすことができるだろうか? 憎い仇の情報を集めまくるに似た執念ではないか。(p.151)

好きじゃなければできないけれど、愛するに到っては度を超えてしまう。
そういえば僕の所属する研究室のOBの方で、偉大なる国語学者・橋本進吉先生の熱狂的なファンがいたそうでして。先生のお墓参りまでしてしまうほどだったそうで、妄信的でさすがに偏った意見を論じてしまっていたというお話でした。僕はそこまでではないと(自分では)思っていますが、何事も度が過ぎてはいけないのですね。好きであれ、しかし愛すべからず。心にとめておきます。

不安だからこそ

新たに辞書編集部に所属することになった岸辺さんという女性が、馬締がかつて不器用なラブレターをしたためたことがあると知ったときの台詞。

言葉にまつわる不安と希望を実感するからこそ、言葉がいっぱい詰まった辞書を、まじめさんは熱心に作ろうとしているんじゃないだろうか。(p.233)

人間が自分の思いを他人に伝えたいときに、おそらく最もよくとられるであろう手段が言語です。思考するにも、伝達するにも、我々は言語がないと何も始まりません。自分の思いを託すために、適切な言葉を選べているのだろうか。この言葉で僕の気持ちは伝わっているのだろうか。そんな不安があるからこそ言葉を知りたいと思うのだ、と。人間として、言語に興味を持つのは自然なことなのかもしれないですね。

記憶とは言葉?

先にも登場した岸部さんに対して、馬締の妻・香具矢が語った台詞。

「私は十代から板前修業の道に入りましたが、馬締と会ってようやく、言葉の重要性に気づきました。馬締が言うには、記憶とは言葉なのだそうです。香りや味や音をきっかけに、古い記憶が呼び起こされることがありますが、それはすなわち、曖昧なまま眠っていたものを言語化するということです」(pp.266-267)

最初にこの台詞を読んだときは、なんだかよく分からないような気がしました。ただ、そのあとに

「おいしい料理を食べたとき、いかに味を言語化して記憶しておけるか。板前にとって大事な能力とは、そういうことなのだと、辞書づくりに没頭する馬締を見て気づかされました」(p.267)

とあることを踏まえると、ここで香具矢が言いたかったのは「言語とは形ないものに形を与えるものである」ということなのかな、という結論に到りました。古い記憶、料理の味、そして心の中にある気持ち。すべての”形のないもの”は言葉によって形を与えられているということなのかもしれません。

辞書と国家権力

これはこの本を読んで初めて気づかされた点でした。イギリスの『オックスフォード英語大辞典』や中国の『康熙字典』などのように、多くの海外の自国語辞書は国王の勅許で設立された大学や、ときの権力者の主導のもとで編纂されているということ。一方の日本は、これまでに公的機関の主動で編まれた国語辞書は存在しません。このことは非常に誇るべきことであると思います。確かに資金面では国家主導のほうが潤沢な資金が得られるかもしれませんが、国語辞書が国家のものになってしまえば、記載に関して政府が介入し、言葉が支配の道具として扱われてしまいます。それこそ「生きた辞書」からはさらに遠のいてしまうと言うことができるでしょう。

「言葉とは、言葉を扱う辞書とは、個人と権力、内的自由と公的支配の狭間という、常に危うい場所に存在するのですね」(p.283)

しかしながら日本にも、植民地を持っていた時代には被支配地域の人々に日本語を強要するなど、言葉が支配の道具として使われてきた歴史が存在します。そうした歴史的背景を考えると、岩波書店辞書編集部の平木靖成氏がこの本の解説に書かれた次の文が、より重みを持って聞こえてきます。

辞典が権威や権力として言葉を縛るのではなく、道しるべでありたい。(p.335)

支配の道具として使われた日本語の歴史もそうですが、本節の冒頭にも書いた通り、海外の辞書事情に関して無知であったことに気づかされました。これをいい機会と捉えて様々調べ、国家・個人のあいだにおいて言葉はどうあるべきなのか、考えるきっかけにしたいと思います。


言語の担い手は、紛れもなく私たち

最後に、この本の解説を書かれている岩波書店辞書編集部の平木靖成氏の言葉より。

確かに辞典は言葉の規範を示しているように思われるが、実際は、辞典が言葉を提案することはできず、世間の言葉の後追いしかできない。また、日本語は表記が多用であり、基準が厳密でない面が多くある。
そのため辞典を、言葉を「正しさ」の枠に押し込めるよりも、もっと自由に言葉を使うために使ってほしいと常々思っている。(p.334)

言葉の「正しさ」という問題。私たちが思う正しさは、様々な要因によって規定されています。その語が歴史的にどのように用いられたか?という歴史的用法に拠る正しさから、国が決めた常用漢字等の決まり事としての正しさまで。しかしそうした「正しさ」に捕われすぎると、言葉の重要な側面である「変化」を妨げることになりかねません。正しさに関わらず、いま私たちが使っている言葉が辞書を形作るのです。もちろん、正しい(とされる)言葉が必要なときはあるけれど、時には変化も受け入れて。どの言葉を使えば上手く伝わるか?この言葉はこんな意味で使われる場合もあるのか!と、辞書を使って豊かな言語生活を送ることができたなら、きっと未来の辞書も豊かになること間違いないですね。

ちょっと長くなってしまいました。いつも小説を読むときは思ったことを軽くメモする程度なのですが、今回は言語に関わる辞書がテーマということで、ちょっと力が入ってしまいました。これからはもう少し力を抜いていきましょうかね。最後までお読みいただきありがとうございました。

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