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靴をそろえろと教えるニッポン、相手をリスペクトして自分で考えろと教える米国

 海外に長く住んでいると、色々な国の人たちと関わることとなる。

同時期に某インターンナショナルスクールに編入してきた米国人ファミリーと、その後5年間ずっと付き合っていたのだが、そこの息子さん二人が、うちの次男と三男のクラスメートだったことから、かなり頻繁に家の行き来があった。

アジア人から見ると欧米の子育ては感覚的に違う部分が多く、本音を言えば面食らうことが多々あった。日本式のシツケが全くできていないように見えたのだ。我が家で傍若無人に振る舞い、キッチンまで来てお菓子をねだり、そのお菓子を平気で床にぶちまけるようなこともあった。

私の友人でもあったそのママとパパは、それはそれは人格者で、ママはクリスチャンで画家でもあり、広大な自宅のアトリエにはキリスト教に関係する油絵の描かれたキャンバスが、何枚も立てかけられていた。

「あんなに素晴らしいご両親なのに、なぜ子供さんはこうなのか」と本気で聞きたいと思うほどに傍若無人であった。

お兄ちゃんのRくんは、学校の送り迎えをしてくれる現地人のドライバーさんに対しても同じように失礼な態度をとっており、見るに見かねて注意したこともあったが、そのドライバーさんが実に紳士な方で、「いいよいいよ、彼はいつもそうだし」と言って笑ってやり過ごしていたので、あまり深入りもできなかった。

現地に住んでいる日本人のお子さんが我が家にやってくると、全員が玄関でキチンと靴を揃えているのを見た時に、「ひゃーっ、さすがニッポンの家庭教育は素晴らしいな」と感動したものだ。

Rくんと次男レンは、その後つかず離れずの関係になっていたそうで、我が家に遊びに来ることも次第になくなっていった。そのママと会うたびに「最近、レンが遊びに来ない。今日は来れる?」と聞かれるようになった。友人関係が変わったのだろうが、思春期の子供の友人関係に親が介入できるはずもなかった。

そして、その後。

数年ぶりに韓国人の友人二人とRくんが我が家に遊びに来たことがあった。当然のように泊まっていくことになったのだけど、その翌朝、びっくりしすぎて私は声を失うほどだった。

Rくんだけが、ゲスト用の布団を畳んでいたのだ。

さすがに日本式の畳み方を彼が知っているはずはないので、ちょっと不思議な形にはなっていたけれど、ちゃんと彼は自分のエリアをキレイに片付けて、バッグの中身を散乱させることなくまとめていた。逆に韓国人の二人は、お布団もバッグも散乱させたままであった。

そう言えば........。

久しぶりに会った彼は、私の正面に立って目を見てちゃんと挨拶もしてくれたし、話し方もびっくりするほど大人になって落ち着いていた。野放図でしかなかった過去の片鱗を全く感じさせないほどに大人っぽくなっていたので、レンの子供っぽさが際立って見えるほどだった。

なんてこと...........。

この数年の間に彼の中で何が起こっていたのかは分からないけれど、「レンのお家に行ったらお布団を畳みなさいよ」とママにガミガミと言われて来たわけではないということだけは分かった。彼が自分で考えて、自分でそうするといいと思ったから、それをやったまでなんだろう。

Respect others/Respect yourself.

こういう言葉を、彼らは子供の頃から聞かされていたというのは想像できる。でもその言葉の真髄は「状況に応じて自分の頭で考えろ」なのである。こうすることが他人を尊重することだという具体例を示されることはない。自分がされて嬉しかったこととか、友達関係の中から学び取ったこととか、相手の反応を見てみたりと、色々なものの積み重ねで、自らの脳を使って紡ぎ出した行動なのだ

そして、彼らがその域に達するまでには、それなりに長い年月が必要で、親や周囲はそれを「十分にじっくりと待って」くれているのだ。

目の前のママ友に「躾ができないママ」と思われないように、今この瞬間に我が子が「周囲に非難されないように、ちゃんと振る舞える」ことを証明したいと思う日本人の親とはベクトルが全く違う。

日本は、「正しい振る舞い」というものが既に規定されていて、それは知識も経験も豊富な大人が十分に練って作ったルールであるから、子供が無批判で従うべしとする社会である。

そしてそれは、日本だけではなく周囲の東アジアでも、日本と同じような価値観があったりするのだ。親の言うことに無条件に子供は従えと。

この状況に気づいた瞬間に、かなり脳内で絶望感が漂ったのを覚えている。

小さい頃から自分で考えるしかない状況の中、何千回何万回、何億回と思考を重ねて思春期を越えた頃に、自分だけの思考の経験値が爆上がりしたアメリカ人のRくんと、その思考をシャットアウトされた状態で、知識だけを詰め込まされた日本人とで、差がつかない方がおかしい。

人格者のご両親が、なぜRくんに細かい躾をしなかったのか、なぜ待つことができたのかというと、彼らの文化の中での集団合意ができているのではという仮説を立てた。子供時代は多くを学び経験している時期だから、多少のやらかしについては大目に見ましょうという合意だ。それに比べて我が国は、幼い子供の小さなミスや不適切な行動については、周囲で徹底的にその親を叩き、それに恐怖する親がトラブルを起こさないように子供の世界に介入し、何の経験も積ませないばかりか、「こういう時はごめんなさいと言わないとだめよ」と形式的なことばかり教えるのだ。

これが単なる処世術の話なら、それほど震撼するべき話でもない。日本の社会で生きていくなら、その中でうまいこと生きていく術はないよりはあった方がいいと私でも思う。

でも、脳の価値は書き込まれたデータにあるというより、その有機的な活動に真価がある。大量のデータをすべて脳内に暗記できる能力があっても、そのデータに何らかの意味づけ(刻印)がなされていなければ、それは単なる点でありゼロ価値である。過去の思考を伴ったトライ&エラーで、データに濃淡がつき、有意義な情報は強化され、不必要な情報はレベル下げが起こり、その活動を経て紡ぎ出される出力こそが、新たな付加価値そのものなのである。

大人側がトラブル回避のために、あれこれと新たなルールや禁止事項を追加していく度に、その案件に対しては「思考停止せよ」ということを子供達は学ぶのである。時々「それはおかしいのでは?」となどと疑問を呈する子供がいると「生意気だ」と感じ、力でねじ伏せようとするのなら、それは本当に教育なのかな?

私の個人的見解は、大人こそ全力で「子供たちがそれぞれトライ&エラーできる環境」「失敗しても再挑戦できる環境」を死守してあげるべきだと思うのよね。

これが「自分の頭で考えること」と「(制限をかけずに自由に発想をめぐらせる)創造性」の素地である。

長い間、海外に住んでいて帰国してから、日本人に共通するものをいくつか発見したが、その中の一つに「自分で勝手に前提条件(制限)をつけている」というものがある。自由に発想せよと言われても、みんな同じようなレベルの制限を知らず知らずに課しているのだ。

前提条件が提示されているわけでもないのに、(暗黙の了解として)日本の社会で受け入れられている範囲内でモノを考えるというクセがついてしまっているのだ。

ここに外国人が一人入って、別次元からの発想を展開すると、「え?そういうのやってもいいの?」「アイデアが斜め上過ぎる(笑)」と言われたりするのだが、笑い事じゃないのだよ。

子供が育つには、自分で考えて行動してフィードバックを得たり、そこから自分で考えてみたりの圧倒的場数が必要である。そしてそれを365日、20年間やり続けていた人と、「自分で勝手に考えるな、大人が考えた最強の子供であれ」を押し付けられた人との間の差の大きさに、絶望感を覚えたのだ。

ちなみに、こういうことを書くと「外国人でも批判的思考がない人の例」とか「優秀な日本人の例」をあげる人がいる(汗)。が、私は、自説の正しさの証明をしたいわけではないのだ。

日本において、大人に潰される子供が一人でも減った方がいいと思うだけだ。

子供時代に、思考の芽を潰し尽くしてから、「若者よ、創造性を持て」「批判的思考を持て」と言っている大人の目を覚まさせたいだけなのだ。

ところで。

では、私自身はどうかというと、恥ずかしながら批判的思考のカケラもないタイプである。が、そんな私が40代の中頃になって初めて「今までの自分は、もしや何も考えてなかったのでは!?」と気づいたキッカケがあった。

この話はまた次回に。


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