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自己紹介

はじめましてRyuです。

まずは自己紹介。

僕はロービジョン(弱視)の書道家、マンダラマリアートのアーティスト、詩と小説、点字図書創作を趣味としています。本業は高野山真言宗の僧侶であり、住職です。この記事のタイトル写真のように、ほとんどの世界がぼやけた状態で30年近く生きています。 

 僕の目の状態は左目はほぼ視野も視力もありません。網膜裂孔や網膜円孔という網膜の病気とを球後視神経後の視神経萎縮で 視力は指数弁、近視力は0.02、視野両眼で7度。色覚異常(判別しにくい色がある) 白杖使用者です。 全盲(まっくら)や光覚弁(光を感じる程度)ではないのと、角膜や緑内障でないので、見た目は健常者とかわりません。 ロービジョンのアーティストの生活や仕事などの実態を知っていただきたいと思「視覚障害」の記事に投稿しました。

最初に眼科に行ったのは小学一年生の検診で弱視の矯正を始めました。その時はまだ夜盲もあったかは不明。中学二年生頃には近視の矯正でメガネを使えるようになり、車の運転をするわけでもない年齢だったので、これが普通だと思い、ごく普通に普通学校で毎日を過ごしていました。

しかし、30才くらいになると夜盲や視野狭窄などで、車を運転していてもよく車庫入れなどでぶつけるようになりました。会社の定期健康診断でひっっかかり、眼科へいくと、強度近視による網膜剥離でした。

手術をせずになんとか治ったけど、医師からは難病の恐れがあると言われ、大学病院に一年くらい通いました。

色々検査していくうちに、眼球の後ろ、つまり視神経にも炎症があり、ステロイド治療しましたが、視力はグーンとさがり、メガネでの矯正ができなくなりました。勿論、車も運転できなくなり、バスで通院しました。その時はもう、社会的盲の視力になっていたので、職業も考えなくてはならず、はじめて当時住んでいた岡山の視覚障害者センターに相談にいきました。

その頃はパソコンでの仕事も普及しておらず、あんま、マッサージ、鍼灸という三療の仕事しかないと言われました。しかも、相談を受けてくれた全盲の相談員の方が言うには、経験から言うと僕の病気は全盲になる可能性が高いと言われました。

僕としては大変ショックで、鬱状態。なんども自殺を考えました。しかし、色々悩んだ末に、三療の資格をとるために、岡山県立盲学校に通うことにしました。しかし、脳卒中で倒れた母の介護もしなければならず、度々遅刻や欠席しなくてはならなかったのです。それにまして視力がまだある状態で入ってきた僕は全盲の担任の先生から酷いイジメを受け、僕の心と身体は病んでいきました。

疲れ果てて何日か休んでいると、担任の先生から休学願でなく退学願が郵送されてきました。そのことについて電話でたずねると、欠席が多いからということ。
そして、「お母さんが死んでからきなさい」と言われました。

当時の担任は健常者の藤野先生、全盲の鷺原先生でした。特に鷺原先生からのイジメはひどく、テストの点数がいいと、休んでるのに成績がいいはずない、カンニングしてると言いがかりをつけられ、健常者の先生を監視につけさせたり、マッサージの時間では、視力があるんだから、実技も見て覚えろとか、盲学校なのに手技も手をとって教えてもらうこともできませんでした。他の先生も、誰もかばってくれませんでした。僕の病気には日差しが悪いのですが、直射日光のあたる窓際にすわらせたり、眩しいのと悪化予防の為にサングラスをすると、それでも眩しいので目をつむっていたら授業中に寝てる等、何かにつけて言いがかりをつけられました。毎日言葉で攻撃を受けて責められ続けられていました。

毎日毎日が地獄でした。将来見えなくなった時を思って資格を取るためだけど、何度も死にたくなるほど追い詰められ、すっかりメンタルがやられてしまい、通っていた精神科医に休んだ方がいいといわれ、ひどい鬱状態だと診断書を出して休むことにしました。すると、精神を患ってるものは国家試験を受けられなから退学しかないと、さらに担任たちは追い詰めてきました。何故、鷺原先生が同じ視覚障害者なのに僕だけをそこまで追い詰めてくるのか理由は全く分かりませんでした。

僕は留年しつつも、三年ほど無駄な時間を過ごしました。

ある日、もう限界に達して、バスに乗って岡山港まで行きました。そこで夜になったら海に飛び込んで全てを終わりにしよう……そう思いました。

そこで出会ったのが小豆島の88ヶ所巡礼に行く白装束の方々でした。

どこに行くのか聞くと、四国と同じように小豆島にも88ヶ所の霊場があり、何日かかけてまわり、最後に高野山にお参りに行くということでした。
一人の女性が「お接待」といいミカンをひとつくれました。

当時僕はカトリック教会のキリスト教信者でしたが、声をかけ、「祈っているから」と言葉で慰めてくれる人はいても、苦しい現実は変わらず、救いは何一つ得られませんでした。共同体といっても、あんまり状況がひどいと、人は関わりたくないのだと言うことを学びました。
創価学会の友人に誘われて、よく会合にも行きましたが、僕には友人のように燃えるような信仰心はできませんでした。

だけど、88ヶ所巡礼、空海という言葉には、すごく響きました。

実際に自分も巡礼に行くことにしました。様々な出会いと経験がありました。僕は何故か空海には自然に溶け込めたのです。神であるキリストは共に歩いてくれませんでしたが、人間だった空海はずっと僕と歩き、高野山に導き、やがて対面することになるのです。

僕は知人をたより、石川県に移住しました。

石川県の人はやわらかい口調で、お節介なほど親切でした。

僕は盲学校にリベンジすることにしました。情報を聞きつけた岡山の先生、鷺原先生、佐藤先生は、僕の情報として悪い印象の情報を石川県の盲学校側にわざわざ知らせてきたそうです。当時の石川盲学校の担任の奥間先生は、入学して一年が過ぎようとしているころに、ああいう情報がきてたけど、一年間君を見てきて、アレはウソだったと言うことが証明できたね。少なくとも僕も、他の先生方もそう思ってるよ。と言って下さいました。

僕は知識欲の高い素晴らしい先生方に教わって、ぶじ三年で国家試験に合格、3つの免許を手に入れ、勉強が楽しくなり、生き甲斐もではじめました。

これなら生きていけるかもしれない。

僕は盲学校卒業後、放送大学に進学、福祉と心理の2学科を卒業、認定心理士の資格をいただき、金沢大学をステップに通信過程で高野山大学の大学院を修了し、文学修士になりました。

そして、高野山で大学得度で出家し、健常者でも厳しい修行を終えて、現在は石川県の 高野山真言宗 源法院で住職をしています。

そして、高野山で研究した「曼陀羅と色彩」からマンダラアートに強く惹かれ、マンダラマリアートに出会い大畑真理先生に師事、アーティストとして、そしてプラクティショナーの資格を取りました。

最近は30年近くに及んだ母の介護の疲れからか、線維筋痛症になってしまいました。身体中が痛くて、寝たきりでい動けない、過活動膀胱でオムツをしなければならないこともしばしばです。リリカという唯一の薬も休まなければ効きません基本脳を休ませてあげなければ良くならない病気だからです。
楽しいと思うことをやるのが1番の治療と言われました。
ある人に、オマエには人を喜ばせたり楽しませたりするものは書けない、才能が無いと言われていたのですが、詩や小説に挑戦してみることにしました。
金沢文芸館で開催された小説入門講座で初めて自分の書いた短編作品が掲載されて本になり、さらに小説講座にて中編作品、詩入門講座でも作品を掲載することができました。

僕の夢は、自分の描いた小説や曼陀羅アートに、弘法大師空海こと「お大師さま」の言葉を載せて素晴らしい密教の世界や癒しや光の言葉を届けたいと思っています。また点字でも出版していきたいと思っています。

僕のように闇の中でもがいて苦しんでいる地獄から、真言宗の教えやそれを実践している人のご縁を得られて、苦海から光ある場所に脱出できた体験からも、救いの道、入り口はたくさんあると信じています。僕と同じような方々いらしたら、僕の作品を通して皆さんに希望を持っていただけると幸いです。僕がお伝えできる精一杯のことかもしてませんが、未だ知らない素敵で素晴らしい世界をその肉体で体験していただきたいと思っています。

簡単ですが、長くなりました。読んでいただきありがとうございます。

こんな僕ですが、末長くよろしくお願いいたします。

南無大師遍照金剛 合掌🙏✨🍀
沙門 龍正

僕をアーティストとして育ててくださるサポーターの皆さまに感謝します。 画材や研究費に大切に使わせていただきます。感謝💖🍀