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わたし我、、、という思考体験。

わたしが、わたし我、、、というときより
わたし、やってない、、、ときのおだやかさ。

わたし我、なにもしていないほうが、
うまくいくんですよね。

ほんと、そりゃそう…なんです。

わたしがわたしが…というときには、どーでもよいことが気になるし、それにひっかかる。 そんなふうに、わたしがわたしが…は、いろいろなことを

素通り(そのままにできない。)

いま、これが気になって…素通りできず…
まんまと、いつもの「これ」にひっかかっているぞ。


ってことにハッとできないと、ずーーーっと、
この「思考に」ぐるぐる絡め取られていきますよね。

そこに、ひっかかっているんだなあ、、、
( そこ、気になっちゃう?? )っていう気づき


そこにずーっと気づけなくて探究・停滞感がおわらないパターンは、いろいろ知識があっても、

いつものおなじそれに
ひっかかっているけど
( まだ、そこ、引っかかります ???)

そうツッコメたなら、、、
もう十分、気づけていますし、
あとは、非言語で落とし込めたら終わり!

もう、そんな「思考」どーでもいいやろ???

って自分でツッコんで笑ってほっておけたなら、それで終わり…なんですけど、それ、、、そう「気づく」が起きてこない。そのようなことを「気づきが薄い、浅い」っていうのでしょうか。気づきに薄いも浅いもないようにもおもったりもするんですが…(余談)

この わたしが、わたし我、、、というのは


・ 自分が「前」に立っている
・ 左脳過剰、自分思考との一体化

がおきている状態のことなのだとおもうのですけど、

この「ひっかかりつづけている」という現象は、
そのまんま、、、その思考と一体化していることに
「  気づいてない。」が起きています。

もし、そうではなく、ハッとできたなら、、、それは外れて「いつものそれをしていない」が起きてくるはずだから…

そして、きっと、ここに

成長=変化

と呼ばれるものもあるのだとおもいます( 無自覚だったものが意識化されて、新しいほうを選ぶ…ということが起きてくる現象 )

あれこれにひっかかるフックのような機能
(自分思考)


この子が、いまここをそのまま…素通りできず、耐えられない
(=いまここのかんじ感覚をただ眺めていられない。)

それがフックのやくわり(それが思考そのもの)なので、そう(仕方がない)のですが、そのような思考の動きが、世に言う「苦しみ・葛藤」であって、それはシンプルな生き物としての苦しみではなくて、、、

ドラマ・ストーリー性のある左脳由来の苦しみ

= わたし我、、、という思考体験。


いまここのかんじ感覚をそのまま、ただ眺めていられず、コトバ・思考で解決しようとする「その動き」が、、、また左脳・思考・物語性とのつながりを強化して、自分思考との一体化を強固なものにしていく

…というループです。


このループによって外れない
「 わたしが、わたし我、自分が、、、」

絶対に、意識・ココロを
「思考・左脳の外」に逃さないVRシステム!!

 


すごくない??? 


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三脳バランス研究所

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