「じぶん」という魚は、ストーリー性という水の中でしか生きられない。
『非二元エッセイ』なんてYouTubeチャンネルをやってますので、たまには非二元ぽいタイトルの記事を書いてみたいとおもいます!
探求における内観力
↑これがなにかと大事だとおもっているのですが、
いまここでなにがおきているか??
(いま「じぶん」はなにをしているのか??)
ということに気づく、、、という気づきです。
( その思考は、なにをしているのか? )
思考に気づく…とも言えますが、【自分というストーリー性が濃い】とそのまま気づく…ということが難しくなるようにもおもいます。または、内観力(気づきのちから)が弱いからこそ、ストーリー性が色濃くなる…とも言えそうです。
ストーリー性というのは【フィルター】であり【解釈】であり【色】であり【夢・幻】、、、なのですが、この「じぶん」というのは、このストーリー性の中でしか生きることができません。
前々回でもこのような記事を書かせてもらたのですか
(プロフィール、最近、、、なんだそれ??)
たとえるなら、「じぶん」という魚🐟は、ストーリー性という水場の中でしか生きられません。この水場があるからこそ…魚は生きることができ、この水場の外では魚が存在しつづけることはできません。
そのようなストーリー(解釈)は、もっとも手前にある「なんでもないこれそのまんま」を見過ごして、そのまま(そのもの)ではなくて「複雑なストーリーのほう」に夢中になってしまう、、、そして、そのようなストーリーを「じぶん」は生きています。
ストーリーというテーマについてはこちらの本で書かせてもらったのですが、
そこでは
ストーリーはたんぽぽの綿毛を運ぶ「風」のようなもの
というふうに表現しました。そのような「自分ストーリー」があるからこそ、あっちだったりこっちだったり、あちこちに飛んでいく「理由」ができ、そうやって運ばれる、、、それを「ご縁」ともいいますが、そのようなことがここ・ストーリー性では起きているようにみえる(そのようにも解釈できる)というようなことです。
ウェルカムレイン☆サヤカ https://lit.link/wrsayaka
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