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神様と一緒に、回転寿司のカウンターに座っている。


怒涛のように、いろいろ言語化が浮かんでツイートしてみたりしていますが、

同時にすぐ忘れちゃう
……だから、そのときにメモるんですけど笑

オンライン研究所「 三脳バランス研究所 」もはじまって、そこにアップすればいいのかもしれませんが、怒涛の記事の本数になってしまいそうなので、自粛しています(笑)

しかも、内容が結構マニアックで、、、

「神様」というコトバがしっくりくるようなことばかり、、、

これ、どこにシェア・アウトプットしたらいいものかと、うーーーん、、、となってしまいます。「神様」というコトバって、、、あまりにも、いろいろな意味・イメージ・宗教性などがくっつきすぎていて、全然それとは違う…というかんじもしていて、

「全体性・ひとつ・気づき・意識・システム

といった全然「エモくない表現」を使ってみています。 でも、この記事のタイトルはちょっと愉快だったので「神様」という例えをつかってみました。


自動思考が消えていくと、、、

浮かぶ思考や感情が
「自分ごと」とは感じられなくなってくる。


だから「深刻さ」の代わりに… 

ありがたさ、愛おしさ、畏敬の念 

……のようなものをそこに感じる。

いまここの定点観測

この視点は【気づき本体】の視点でもある。
夏休みの「ヘチマ観察」のように、ただ、観てる意識。

その感覚で、わたしもわたしに起きることを観てる。

わたしという「スペース」を通り過ぎていく
思考や感情を、気づき本体とともに観ている。


その様子は「祈り」や「癒し」のプロセスのようで

ベルトコンベアによって
目の前に流れてくる「カルマ」を
気づき…と共にただ眺めている

こんな例え・イメージも浮かびました。

全体性と一緒に
回転寿司のカウンターに座って、

目の前を廻っているお寿司を眺めている。

そんなかんじ。

緑茶をすすりながら、、、(笑)
そんな雰囲気、ほのぼの。。。


ただ、じっーーと観ているだけ…

なのだけど、、、

それらは、静けさに表れて、静けさに消えていく。

たぶん、その様子・プロセスは
「癒し」なのだろうなっておもいます。

自動思考が消えていって、浮かぶ思考や感情が
「自分ごと」とは感じられなくなってくることによって

“自分”は不完全でいいんだ…ってことに気づきます。

“自分”が完璧である必要がない。

どんな“自分”であれ、、、

そういう“自分”が可愛いなぁ…
ウケるなぁって感覚で、愛おしい。

お子さんがいる方なら尚更わかる感覚かも。
ダメでも、欠点があっても、愛しい…

すべて、、、
その大前提の中でおきている観察。

“自分”は無常な存在なのだから、、、

完璧さ=普遍性は「全体性」としてあるから、、、

そして、この

「全体性・この気づき・普遍性」が
いつも一緒に「いる・ある」


離れることがない。

離れる…ということは
「消える・存在しない」ということだから。
認識も、気づきもない。= 居ない。

もし「いま、ここにいる」という感覚があるなら、
それは全体性と共に「ある」、、、ということ。

これはセット

「セットーひとつ」なので離れようがない。それは「できるものならやってみろ!」というようなことで、「明日の朝、太陽が登ってこないようにする」ぐらい不可能!!

そんなこと、わたしたちには、
どーやったって出来ない。

だから、安心していい。


「 この気づきで、くつろぐ。。。」

ウェルカムレイン☆サヤカ http://sky.holy.jp

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三脳バランス研究所

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