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「 気づくor気づかない 」という縁起

これ、なんの役に立つのかはまったく全貌がみえてないのですが、ヒトネタになりそうだったので文字化してみます。もしかしたら

・ 感性 感受性 鈍感力
・ HSP 敏感さん

みたいなこととも関係してくるのかもしれません。

いつも、なにか「たとえ」で浮かぶことが多いのですが
今回の浮かんだのが、、、


スノーボードで金メダルをとった平野歩選手

やらざるを得ない。



あれだけの技ができるポテンシャルがなければ
「それをやろうというイメージ」も浮かばない

それが見えちゃったら、、、
それに気づいちゃったら、、、
やらざるを得ない。


で、、、それって「シアワセ」なのだろうか?


ともおもっちゃうわけです。

もちろん金メダルとれちゃうぐらいの才能に恵まれて…とかとか、そういう華やかな部分もあるんですけど、


それに「気づかなければ」
やらなくてもいいわけなので、、、


「天からの授かりもの」ともいいますが、
その才能にまつわるあれこれも
「じぶんでどうこうできることじゃない」

なにに、どう、気づくか、、、



見えちゃったら、、、
気づいちゃったら、、、
それが「気になっちゃう」ので、やらざるをえない

ゴミが落ちていることに気づいたら、拾えます。

でも、落ちていることに気づかなければ、拾えません。
(拾うための縁起が生じていない、拾いようがない)


「高み」が見えちゃう
なにかに「気づいちゃう」

、、、っていうのは、そういう大変さがある。


単純に「仕事」が増える
ハードルの高さ、
やるレベルがあがっちゃう…
芸術家さんでいうなら、
「そうやって作品のクオリティを上げていっている」


とおもうのですが、、、

なにをもって「よし・OK」とするのか。

これって、、、じぶんで
どうこうできることでもなさそう。


単なる「感性」の違いなんですけど
どこで満足するか、できるか、、、

、、、みたいなこととも繋がってます。


平野歩選手であれば、
あれだけの技をやってのけても
、、、もう、その先に
「気づいてしまっている」とおもうので
そこに向かっているのだろうなあ…っておもいます。

あれだけやってもその先が見えちゃう

その「高み・ビジョン」に気づかなければ、
それをやる「縁」もない。

気づいちゃう人と気づかない人



たとえば「宴会の席」とかでもそうですが、

気をつかえる人とそうでない人

という個人差があります。
わかりやすく言ってしまえば、、、

「 気づいちゃう人・気づかない人 」

どちらが良い悪い・優劣でもなくて、当然・自然・そのままのありようとして、それが起きているんだとおもいます。これもじぶんという個人の範疇じゃないです。

なにかモノが落ちる瞬間、、、、


それに気づいた人が、まず、それを止めようとします。

でも、その人よりも先に気づいた人がいたら、それより先にそれを止めようとする、、、ってことが起きます。

気づかない人はすべてが終わってから、それに気づきます。


それに「気づかない」ので、
それを止めようという「動機・きっかけ・縁」もない。


これを「後付け」であれこれ言うこともできるけど、
もう「そういうこと」として起きちゃってる。

ある程度の努力や工夫で
変わってくる部分もあるかもしれませんけど、

「 そういうことでもなさそうだな、、、」

全体を担っている機能に優も劣もない

こういうのって「能力差」があるようにもみえるけど
すべてのありようが「全体を担っている」

という視点においてもやはり優劣っていうのは、
すごく視野の狭い、分離したものの見方。


どちらであっても歯車=機能

機能に優も劣もない。

こういうことは、

自分の意思とは関係ない
自分でどーこーできる範疇じゃなこととして
起きているのだなあ、、、って気がします。

「気づく」っていうこと「気づく全般」すべてそう

なにを 美味しい とかんじるか、、、
なにを 心地よい とかんじるか、、、
なにを ベスト とかんじるか、、、
なにを 「よし」 とするか、、、

ぜんぶんぜんぶ、、、です。

これらすべて「気づき」

ということに起因しているのですが、
これ、まったくのコントロール外です。

ウェルカムレイン☆サヤカ http://sky.holy.jp


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